通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 新制高等学校の成立 |
新制高等学校の成立 P248−P254 文部省は昭和22(1947)年2月5日、「新学校制度の実施について」を発表し、新制高等学校を昭和23年度から実施することを公表し、翌日、これを地方長官あてに通達していた。公立の高等学校は、その多くが都道府県立であるため、都道府県が実施の準備にあたった。昭和23年11月には都道府県教育委員会が発足し、教育委員会が新制高等学校の実施にあたった。昭和22年3月に学校教育法が公布され、新学制が成立した。文部省は、同年9月5日「新学制の実施について」の通達を発して、地方財政の逼迫を理由に、暫定的な設置基準により、無理のない制度の発足を期することを表明していた。そのため、できるだけ、旧制中等学校を新制の高等学校に移行させる方針を採用した。北海道では、同年4月1日、北海道新学制実施準備協議会が設置され、新制高等学校の設置計画の策定にあたった。北海道庁は、旧制中等学校の施設を基にして、23年度にさらに再編成をおこなうことを予定し、同年4月1日から庁立の中等学校を高等学校に転換する暫定的な措置をとった。このため、23年11月に成立した北海道教育委員会では高等学校の再配置をおこなうことにして、24年1月、高等学校整備一般原則をたてた。それは、(1)男女共学実施を原則とする。(2)6・3・3を一貫して考慮する。(3)教育の機会均等を主として学校分布を考慮する。(4)1学級定数を50名とし、且つ18学級を最高標準とする。但し、大都市においては暫定的に24学級まで認める、というものであった。こうして、昭和24年12月5日、高等学校整備統合計画実施要項が決定され、公立高等学校の通学区域の設定、男女共学の25年度全面実施その他が明らかにされた。 新制高等学校の成立と、学校再配置を巡る函館の動きをみることにしたい。学区内の学校の再配置は、統合・併合・転換・増設・廃校などの処置が予想されるものであり、学校関係者の間に多大な反響をよぶものとなった。函館の旧制中等学校は、昭和23年に、次のように新制高等学校に転換した。すなわち、北海道立函館中学校が北海道立函館高等学校に、北海道立函館高等女学校が北海道立函館女子高等学校に、函館市立中学校が函館市立高等学校に、北海道立函館商業学校が北海道立函館商業高等学校に、北海道立函館工業学校が北海道立函館工業高等学校に、それぞれ名称転換をおこなっている。そのほか、函館市立商業学校は函館市立商業高等学校に、函館市立女子商業学校は函館市立女子高等学校に、函館市立工業学校は函館市立工業高等学校に、それぞれ名称転換をおこなっている。 また、私立の中等学校については、同年、それぞれ次のように、新制の高等学校に転換している。すなわち、遺愛高等女学校は遺愛女子高等学校に、函館大谷高等女学校は函館大谷高等学校に、函館白百合高等女学校は函館白百合高等学校に、函館計理商業学校は函館有斗高等学校に、函館大妻高等技芸学校は函館大妻技芸高等学校に、そして、函館昭和女子高等技芸学校は函館昭和被服高等学校に転換している。 このように高等学校に転換した学校のうち、公立の高等学校については、先述のとおり、昭和24年から25年にかけて、再配置の動きが具体化し、函館でも、各公立学校関係者の間に大きな波紋を広げていった。 公立の高等学校のうち、北海道立函館高等学校および函館市立高等学校では、統合を巡って、教職員をはじめ、PTA、同窓会など関係者が一体となって、統合阻止に取り組んでいた。北海道立函館商業高等学校では、とくに総合制の実施を巡って、関係者の反対の動きが活発化していった。これらの問題を含め、総合制、学区制、男女共学の問題に対する関係者の対応は、函館市全体としては、市理事者の原案に対し、学校関係者が陳情をおこない、新学制実施協議会において審議のうえ、結論を市長および道教育委員会に要望として提出する動きになっていった。一方、これに対する側は、道教育委員会と北海道地区民事部教育課長ニブロが前記のいわゆる高校3原則を推進することになっていった。
一方、学校統合を巡る動きとして、昭和24年10月23日付け「北海道新聞」の記事は、「高校統合問題は今月中に市理事者から具体案が発表されることになっているが十九日の全市高校PTA連合会で廃校および統合反対の態度を明らかにし宗藤市長に対し反対陳情書を提出したので市理事者の案はまず第一の障壁に突き当たった」と伝えている。市理事者の側で統合を提案した理由は、「市が統合を計画するに至った最大の理由は将来校舎建築の補助金を確保するためには文部省の意向に従って小、中、高校の校舎面積をプール計算してその過不足を相殺しなければならないという絶対条件から出発したもので」あるという。 この問題を巡る関係者の見解は、市教育課長の「文部省から中学建築補助をもらうためには高校の校舎を中学に開放することが先決問題だ」「結局全高校を統合して生徒や児童の適性も十分考慮した学区制を設け区域毎に通学学校をきめたいと思う」という統合推進の主張に対し、PTA側の主張は「高校を廃止したのでは再建は非常に困難であり、また進学の道もせばめられるばかりだ」というものであり、高等学校関係者の道立函館商業高等学校長の見解は「結論からいって高校統合は止むを得ない」としながらも、「本校のような実業学校では専門の教育設備が必要であるので空いている教室だからといって機械的に統合されたのでは専門の実業教育に大きい影響を来すのではないかと思われる」と微妙な言い回しになっている。一方、生徒の側からは、市立函館高等学校1年生の「一定の基準に合致している校舎設備をもつ本校の場合統合はすべての点でマイナスになると思う、またわれわれ生徒として伝統と歴史をもつ母校がなくなることはしのび得ないものがある」という意見が提起されている。至極もっともな意見であり、学校関係者の主張を反映したものと思われる。 年を越して25年、新制高等学校の問題は、新学制実施協議会において、次のような結論に達し、道教委と市長に要望を提出する段階を迎えている。学区制については、(1)職業課程を主とする各高校は大学区制をとる、(2)普通課程を主とする各高校は小学区制を確立することなどが提案されている。 総合制については、(1)普通高校卒業後ただちに就職する者のために、選択科目として職業教科(約15単位)を充実する。(2)職業高校にも普通教科(約18単位)を置き進学者のために便宜をはかるなどの点が提起されていた。 男女共学については、25年度入学生徒から漸進的に充足すること、昭和27年度までには全学年とも男女共学が実施されることなどが提案されている。 これに対し、既述のように高等学校改革の推進に奔走していたニブロは、「北海道の高校がすでに統合を終り好成績を挙げている他府県と足並みをそろえて行くためには道教育の再編成計画は最低の改革であると思う」と述べ、「通学区域を設けることは教育の機会均等の第一歩である」とし、「男女共学はすでに各地で成功し本道でもほとんど反対がない」と断じ、さらに、「高校の統合は経済的にも教育的にも絶対に必要」と結論づけている。また、国庫補助との関係では、「道民は中学校の建設補助が高校の十分なる統合後でないと出ないことを認識すべきである」と述べている(昭和25年1月17日付け「道新」)。
なお、この時の懇談会は、道教委側が強硬にその案を押し切り、考慮の余地なしの態度を貫き、この問題の終結を予告するような結末となっている(昭和25年2月23日付け「道新」)。こうした占領軍および道教委の動きに対して、函館側では、依然慎重な対応が唱えられていた。25年3月25日付け「北海道新聞」の記事は、こう伝えている。 「道教委の全面共学実施の方針に対立し、あくまで漸進共学を主張している函館市に最後の結論を生むため二十五日午後一時から大森小学校で高校再編成委員会総会を開いた、石田新学制協議会長から去る二十二日の常任委員会で決定した漸進共学実施を申し入れた後決定権をもつ道教委から全面共学実施の命令が来た場合に備える通学区につき協議に入りさきに出された高校側作成の原案に対するPT会の修正案が出され議論されたが市の方針は漸進実施なので全面共学の通学区を決めることは意志に反するものであるという意見が強く採決の結果絶対多数で函館市の場合は漸進共学実施と決定した」。 しかし、この問題は、すでに、3月22日付けのニブロから市長の「善処願」に対する「全面共学の実施を、漸進策はかえって不利」という「返信」で決着していた(昭和25年2月23日付け「道新」)。こうして、「函館市の高校漸進共学の要請も遂に道教委に容れられず二十八日の道教委指令をもって全面共学実施に決定し、高校再編成の総合制、通学区制、共学制の三原則に基づいて十日入学式、十一日始業式を行うことになっている」という結末に至っている(昭和25年4月2日付け「道新」)。函館の教育界をあげて漸進に傾いていた男女共学問題も、道教委の25年全面実施の決定により、25年新学期を期に実施され、1か月後には、「新しくスタートした当時のあわただしさからみれば今では幾分落着きをとりもだした」と報じられ、当初心配されたほどの問題も起こらず、落着したようである(昭和25年5月14日付け「道新」)。 |
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