通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 教室の不足と二部授業 |
教室の不足と二部授業 P254−P257 国民の期待に応えて登場した新制中学校であったが、全国的に多くの問題に直面していた。教員、校舎、教材、教具などの確保は、至難な問題であった。函館の場合も例外ではなかった。とくに必要な教室の確保は困難を極め、中学校の必要教室を確保するために小学校は二部授業を強いられることになるのである。新学制実施3年目を目前にした昭和24年3月、函館の小中学校の教室不足と二部授業の状況について、新聞は次のように報じている(昭和24年3月20日付け「道新」)。「義務制によって進学する新中生が二十三年度より二千四百七十八名の大増加となったためこの分約五十教室が中学校側に割愛され小学校で使用する教室はたった三百八十八教室に縮小、このワク内で学年別の編成をしなければならないので、ただでさえ不足な小学校は一学級五十人が定員のところに万年橋、幸校等六十人以上を詰込み、少いところでも平均五十六、七人を無理に収容することになる、その上中学は二部授業も出来ず最小限の教室で勉強しなければならないので結局その負担は小学校にかかって約三百十教室が二部授業を強いられることになる概して市内の西部が比較的恵まれ今年一月船見中学校舎のしゅん工をみたので、その分約十五教室分が吸収され幾分余裕を生じたが、そのほか中央、北部などの地域では亀田村の合併、自然増などの関係から学童数を増加し東部の柏野校では二十八学級の二部授業をしてもなお教室難で市高に分校を設ける予定でいる、二部授業では高盛校の五年生までをはじめ四年までは青柳、東川、松風、巴、中島、万年橋、千代ヶ岱の七校、三年は大森、新川、二年は幸、常盤、弥生、若松がそれぞれ実施して各校とも二部授業の増加によって教室不足を切抜けようとしている」。
二部授業の解消には中学校の建設が必要で、昭和25年7月に発行された「函館市教育宝くじ」は、その建設資金の捻出方法のひとつであった。 昭和25年8月13日付けの「北海道新聞」は、「全道のどの市よりも二部教授の多い函館市の小、中学校教室難」をどう解消するかが宗藤市政の重点施策になっているとして、現在および今年度内の計画の見通しを伝えている。それによれば、この年の4月から夏休みまでの第1学期間に開校された学校によって現在では市内の二部教授は228学級に減り、以来建設中の八幡小学校の増築校舎14学級が新学期とともに開校するので、これが全部実現すれば70教室140学級の二部教授は解消されることになっていた。幾分緩和されたとはいえ、やはり二部授業は続いているのである。
昭和27年になっても「悩み多い小学校教育」の、悩みのひとつとして、「なお続く二部教授」の問題が、新聞紙上に特集され、この問題の解決が容易でないことをうかがわせている。昭和27年3月22日付けの「北海道新聞」は、小学校の予算の減少、教員の不足、PTA、給食を巡る諸問題とともに、二部授業について、次のように伝えている。 「小学校は現在二十三校、その教室数は最高東川校の四十二教室をトップに蛾眉野、鱒川校の各二まで普通教室五百三十、特別三十一計五百六十一教室となっている。一教室平均五十一名となっているから特別教室を全部使用しても児童二万八千六百十一名分よりないわけ、ところがこれに対し全市の小学児童数は三万千百十二名だから机のない児童がまだ二千五百一名いる数字である。こうした教室不足は二部教授という変則的な授業によって辛くも補われているが現在、二部教授を行っている学校は十二校に達している現状である」。 新学制の実施に伴う教室の不足、それを切抜ける変則的な教授組織としての二部授業。この問題は、函館の場合には、高度経済成長期にまで持ちこされる課題なのである。
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