通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 労働戦線の再結集と労働争議 |
労働戦線の再結集と労働争議 P231−P234 朝鮮戦争開始直後の昭和25年7月、日本労働組合総評議会(総評)が結成され、北海道では同年11月に、北教組、全道庁、全逓従組、道炭労、国労室蘭・函館、全電通など11単産(産業別単一組合)の代議員が参集し、加盟組合員16万名で、全北海道労働組合協議会(全道労協)が発足し、新しい労働戦線の再結集が始まった(全北海道労働組合協議会『戦後編 北海道労働運動年表』)。函館では、先述のように労働組合の連合体組織として函館地方労働組合協議会(昭和21年4月)が活動していたが、組織の中核であった函館地方全官公労組が2.1ゼネスト以後、活動が低調になっていたことなどを理由として、関係者の協議の末、同23年3月に、同協議会を「函館地方労働組合会議」(通称、函労会議)と改称し、再発足させていた(41組合、1万9151名)。しかし、「レッド・パージ」など、労働運動への取り締まりが強まるなかで函労会議の組織運営のあり方をめぐって論議が起こり、その結果、昭和27年1月18日に、同じ名称を継承するが、新しい理念に基づく「函館地方労働組合会議」(通称、新函労)が発足し、新たな運動の段階に入った(函館地区労働組合評議会『函館地評運動史』)。 昭和30年代、高度経済成長が始まる直前のこの時期、函館においてはしばしば労働者の解雇と待遇改善を求める運動が起きている。注目される紛争をあげると、北海道製菓の女子従業員300名の55日間のスト(昭和28年)と不当労働行為問題、北海道ゴム争議(昭和28年)、函館新聞労組争議(29年)、市民税引き下げ運動(29年)、函館バス争議(同29年、30年)、失業者の仕事よこせ運動、数回にわたる函館ドック争議などである。 以下にその模様を紹介しよう。 北海道ゴム争議は、昭和28年、北海道ゴム会社工場(函館市追分町)が不況の影響でこの年の8月分の給料を全額未払としたことが発端であった。そのため同労働組合は9月にストライキを決行したが、この時期には会社の経営は極度の不振に陥り、工場閉鎖が決定された。そのため、従業員は会社から生活補償金代わりに支給された製品の換金化を自らおこないつつ、工場の再開を待たねばならない状況に置かれた(昭和28年9月3日・10月24日付け「道新」)。 市民税引き下げ運動は、昭和29年初め、函館の市民税が「高い」ことが話題となり、新函労会議を主体とする市内の各労働組合が「他市なみの市民税に引き下げよう」という運動を起こすことになった。同年1月27日に市民税引き下げ共闘委員会結成大会、2月14日に市民税引き下げ市民大会を共愛会館で開催した(昭和29年1月27日・2月7日付け「道新」)。この時、問題とされたのは全国各自治体の市民税算定方式が各大・中都市と小都市・町村で実施されている方式の2つのうち、函館は後者に属し、そのため札幌などと比べ2倍から4倍高い税負担を強いられているということであった。これを北海道内のおもな都市でおこなわれている市民税徴収方法(年間所得税の18パーセントから20パーセントに人頭割500円を加算)に変更することを要求した。引き下げ共闘委員会では職場署名のほか、街頭署名を展開し市議会に働きかけた。しかし、市内商店街は市民税よりも所得税、事業税の引き下げの方を重視し、連携した運動は展開できなかった。 また、この時期、函館において失業者が各所で増加したため、失業者の仕事よこせ運動が起きた。道南経済はイカ漁を中心とする水産業に重点が置かれているため、その不振はただちに関連中小企業、ひいては一般関連産業にも影響を及ぼす構造になっていた(第1章第3節参照)。昭和28年末、道南には日雇労働者2900名、職安求職者6000名の合計8900名を数える失業者がいて、仕事を求めていた(昭和28年12月24日付け「道新」)。また、「函館船員職業相談所の調査」によると函館には、失業船員が540名(同28年末)存在し、海運業界の景気と北洋出漁船団の臨時船員募集に期待をかけている状況にあった(昭和29年2月16日付け「道新」)。 函館バス争議は、低賃金と会社側の函館バスが「家族主義をモットー」として労働組合の結成を許さないという労働条件が長く続くなかで発生した(昭和29年8月13日付け「道新」)。昭和29年8月5日、組合幹部の配置転換以来、会社側と組合の対立が続き、長期間のストライキ体制がとられた。この争議に対し、マスコミや路線沿道の一般市民からの労働組合に対する支援もみられ、賃上げを含め労働者の権利の向上に共感する声が寄せられた。9月14日には、午前0時から全面ストに突入した。この日の夜には、市内各単産、文化団体の応援隊も詰めかけ、600名の集団となり、急遽、ストライキ支援の「決起大会」となった。「大会」では、米田全道労協議長をはじめ市内各単産からの激励演説が続き、組合側は(1)会社は組合員の人権を尊重し人間として取扱うこと、(2)会社が今までの不当な行為を改め、法を守ることを求めた(9月14日付け「道新」)。 この争議は、会社側が11月9日に、従業員24名の懲戒処分(解雇13名)を発表したことから険悪化し、北海道地方労働委員会があっせんに乗りだしたが交渉は成立しなかった。その後も労使双方譲らず、年末には「労組側の全面スト」突入と会社側の「施設の使用禁止などの仮処分申請」という対立までに発展した(12月25日付け「道新」)。最悪の事態にまで発展しつつあった函館バス争議であったが、昭和29年12月25日夜、団交の結果、妥協点に到達し、会社側の「懲戒解雇者のうち紛争中のものは再審議を行う」という譲歩案を受け入れ、争議は一応解決したが「経営の前近代性、組合の分裂など近江絹糸道南版」といわれた(12月26日・27日付け「道新」)。この争議の収拾にあたって、会社側が妥協したのは、バス路線の独占事業に対する住民利用者の反感があったことがあげられ、会社側は複線化の回避を望んでいた。しかし、この争議が契機となり、バス路線の複線化が実現することになった。 1年後の昭和30年12月24日、函館市営バスがこの路線の運行を始めた(昭和30年12月25日)。 |
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