通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 戦後初のメーデーと食糧メーデー |
戦後初のメーデーと食糧メーデー P227−P230 敗戦の年の暮れから翌年にかけて、市民の関心事は、食糧と暖房用の石炭を確保することであった。昭和21年2月17日、預貯金封鎖と新円への切換を目的とする金融緊急措置令が公布されたほか、食糧確保と物資の隠匿を防止するための食糧緊急措置令と隠匿物質緊急措置令が公布されたが、インフレと食糧難は深刻化していた。昭和20年末から同23年にかけて函館市民の緊急課題は食糧難の解決であり、当時米の配給が滞るのは日常化していた。そのため食糧確保の運動は数年にわたって続けられた。一例をあげると、21年1月16日、社会党函館支部主催の食糧対策市民大会が新川国民学校講堂で開催され、市民約500名が参加し、「未配主食の即時配給」を決議している。大会では具体的実行方法として、登坂函館市長に対し、即時「市会、政党、労組その他各種団体を網羅した挙市一致の食糧問題作成対策委員会の設置」を提唱している(昭和21年1月17日付け「道新」)。 その後、市長との交渉の末、市長は食糧難解決のための「委員会設置」を確約した。また、これと関連して、市民の自主的な動きは各所でみられ、市内の官庁、会社、工場のほか、町会でも消費組合を組織し、食糧確保のための「買出し班編成」の動きも出ている(昭和21年1月20日付け「道新」)。 こうしたなかで1月26日各層代表が市役所に集まって、挙市一致の「函館市民食糧対策協議会」を結成し、函館の占領軍司令部に「陳情書」を提出することを決議した。同月31日、登坂市長ら代表3人が五島軒に設置されていた同司令部のバーネル准将を訪問、「外米輸入」を懇請する「陳情書」を届けている。この「陳情書」によれば、「十日間も米は無配給」「学校は一月末まで休校」「市民は食糧確保のために旭川まで買い出し」などの窮状が綿々と訴えられている(昭和21年2月1日付け「道新」)。 こうした状況のなかで昭和21年5月1日、戦後初めてのメーデー(「第17回復活函館地区メーデー」)が新川河畔の慰霊堂広場において開催された。函館では、昭和10年以後、野外メーデーが禁止されていたが、11年ぶりの集会には、34労働組合、約1万1000名をこえる参加者があった。函館でのおもな参加労働組合は、函館船渠、国鉄、函館港運、北海道ゴム、函館印刷、日本通運、富岡鉄工所、道南貨物、配電、郵便局、日本石炭、合同木材など広範囲にわたっている。また、女性たちの参加も多く、子どもを背負って行進する姿もみられた。この復活メーデーは全道段階で盛りあがり、札幌2万名、小樽1万2000名、旭川6000名、室蘭4000名の参加者があった(昭和21年5月2日付け「道新」)。
集会では「食糧の市民管理即時断行」、「食糧の徹底民主化」が決議され、5月のメーデーを上回るデモ行進が市内を駆けめぐった。また、食糧メーデーの代表団は吉谷一次助役(市長代理)と山崎松次郎市会議長と面談し、決議を申し入れたところ、同市長代理は「食糧の市民管理を承認する。大会代表委員の要求を最大限に尊重する」と返答した。実際、この頃、函館市の食糧手持ち分は米に換算して1日分の配給量(1160俵相当)しかなかったため配給方針は極度の貧困者と物資を運ぶ輸送機関関係者に重点的におこなうこととしており、市民に満足のいく配給からは遠い状態にあった(同前)。 また、当時、函館市内では市長選挙の公選制をめぐって市民の関心が高まっており、食糧対策が焦点のひとつとなっていた(第1章第2節参照)。「食糧メーデー」直後の6月16日、公選市長選挙で当選した坂本森一は、当選直後、食糧対策について「原則として人民管理を断行しなければ危機突破は不可能である」と発言するなど、食糧確保の緊急性を第一の政策課題としていた(松山一郎『函館市長公選史概要1』)。函館市の主食配給の遅配はその後も続き、昭和22年には市民レベルで何度も「食糧突破市民大会」が開かれている。函館の主食配給の遅配は同年7月10日には56日、10月21日にはついに70日に達するなど、翌23年まで深刻な状態にあった(市史編さん事務局『続函館市史資料集』第2号』)。 |
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