通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第4節 敗戦後の社会問題と労働運動
2 労働運動の展開

暗い時代からの解放

労働組合の結成と函館地区労働組合

戦後初のメーデーと食糧メーデー

占領政策の変化

レッド・パージと朝鮮戦争の勃発

労働戦線の再結集と労働争議

労働組合の結成と函館地区労働組合   P225−P227

 函館における戦後最初の労働組合結成の動きは、昭和20年12月22日に公布(施行は翌21年3月1日)された「労働組合法」より早く、全道労働運動のトップを切って、同年10月18日に全日本海員組合函館支部が結成されている(昭和20年10月19日付け「道新」)。以後、雨後の筍のように労働組合が組織された。若干の例をあげると昭和20年には、北海道新聞社函館支社従業員組合結成準備大会(11月20日)、函館郵便局従業員組合結成準備大会(12月16日)、函館船渠会社従業員組合結成大会(12月11日)、函館合同労働組合結成大会(12月20日)が開催され、翌21年早々には函館駅労働組合結成準備大会(1月14日)、函館市役所交通局従業員組合結成大会(1月20日)、鉄道船員労働組合結成大会(1月21日)、北海漁業労働組合設立準備会(1月23日)、函館機関区従業員組合結成大会(1月26日)、函館市役所職員組合結成代表世話人(2月4日)が開催され、「大幅賃上げ」「八時間労働」など、生活改善の要求が掲げられた(昭和20年11月21日・12月17日、21年1月19日・21・22・23・30日・2月5日付け「道新」)。
 このように労働組合が次々と結成されたが、当時組合結成がいかにごく普通におこなわれていたかを示すエピソードがある。敗戦まもなくの昭和20年末、函館船渠会社従業員組合が結成されているが、その際、富永能雄同社長が、全従業員を本館前に集めて「労働組合の結成を促す」と発言するなど、戦前とはまったく異なる会社側の対応もみられた。従業員のなかには、昭和3年の船渠争議の参加者(引地勇吉、紺谷義臣)もおり、彼らが中心となって同年11月中旬、発起人会を発足、約2000名の従業員が趣意書に賛同、署名捺印して結成大会を迎えた。大会では、司会を紺谷義臣、大会議長を野中富雄が務め、小原豊太が設立宣言の提案をおこなった。結成当時の組合員数は、職員385名(うち、女性が53名)、工員1653名(うち、女性が140名)の合計2038名を数えた。組合事務所は、弁天町20番地に置かれた(函館ドック函館分会『全日本造船機械労働組合 函館ドック労働運動史』)。
 このように市内の各職場で労働組合が結成されるなかで、昭和20年12月20日には、労働組合の横の連合組織として函館合同労働組合(津田伊平委員長、西館仁書記長)が組織され、翌年2月3日にはこの合同労組が提案して、函館労働組合連合会が結成された。会合は、新川国民学校講堂で開催され、造船・運輸交通通信・鉄鋼などの労組代表80余名が出席し、司会者釜谷健一郎(合同)の挨拶後、谷内與三郎(太洋造船)、松村力松(交通局)を副議長に推薦し、社会党支部長宮岸十次郎、共産党道委員武内清、海員組合支部長新妻徳壽の3名が挨拶した。役員は会長に谷内與三郎、副会長に松村力松が就任した。同連合会設立の機運となったのは市内の職域労働組合を結集させ、運動を強化すると同時に、当時、市民の一番の関心事であった食糧確保など、市民の要求に応えようとするものであった(昭和21年2月4日付け「道新」)。連合体結成の動きはさらに同21年4月27日、労働組合の横の連携を求めて全市34組合が参加して函館地区労働組合協議会が結成された。その中核組織は、函館地方全官公労組であるが、これは函館地区内の労働組合が「労働条件の改善」「労働文化の向上」「労組相互間の扶助連絡親睦」などを目指そうとするもので、画期的意義を有するものであった(昭和21年4月28日付け「道新」)。
 また、全道段階の労働組合数は、昭和20年末で組合数104、組合員数約8500名に達し、東京につぐ組織力を誇った。そして連合体組織として昭和21年1月20日に、北海道労働組合連盟(委員長村上由、加盟組合64組合、約16万名)の結成大会が開催されたほか、同年2月17日、日本労働組合総同盟北海道地方連合会(委員長鈴木源重、組合員約10万名)も結成された(『新北海道史』第6巻通説5)。そして、戦後の深刻な食糧難とインフレに直面した労働者は各職場で賃上げ、労働時間の短縮を掲げ、待遇改善を求めて、ストライキをおこなうようになった。
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