通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ レッド・パージと朝鮮戦争の勃発 |
レッド・パージと朝鮮戦争の勃発 P231 2.1ゼネストの中止命令、ドッジ・ラインに基づくデフレ政策による労働者の首切りなど、「戦後民主主義」の後退が続くなかで、いわゆる「逆コース」を鮮明にさせたのが「レッド・パージ」と呼ばれる思想弾圧、「赤狩り」(マッカーシズム)であった。この頃、「赤い教師の追放」、「児童を通じ家庭へ?″赤″の機関誌配布」など、戦前を思わせるような取り上げ方や報道がなされるなかで、「レッド・パージ」の意図が露骨に表面化するようになった(昭和25年10月11日付け「道新」)。昭和25年6月25日、朝鮮戦争が始まったが、その前後に占領軍は、戦後急速に高揚してきた日本の労働運動・平和運動に強圧的な姿勢をみせつけ、いわゆる左翼の追放を命令した。北海道のレッドパージは同年7月30日に函館新聞関係者の60名追放から始まり、全道で257名を数えた(北海道編『新北海道史年表』)。この数は全国の1割をこえる数字に相当する。函館ではこのほかに、北教組関係者6名が馘首の対象になるなど、マスコミ・教育界への影響が大きかった(第1章第5節参照)。この「レッド・パージ」が戦後の社会・労働運動に与えた影響は大きく、労働運動や平和運動の進展を妨げることとなった。 |
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