通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
4 戦時下の市民生活と7月14・15日の空襲

「生活刷新実践要綱」の制定

「要綱」と市民生活の変化

防空演習と市民

函館空襲

北部軍の被害状況

全滅した連絡船

函館市域の被害

函館市の戦没者

防空演習と市民   P1281−P1284

 函館市域において民間人も参加した大規模な防空演習が初めて行われたのは、昭和5年9月28日、29日のことであった。演習の開始に先立ち、臨時函館市防空自警団の総司令に就任した吸本森一市長は、9月28日の「函館毎日新聞」紙上で「防空演習に際して市民各位に告ぐ」と遭して次のように述べた。

 近代に於ける飛行機の発達は実に目覚ましいものであり、又一朝事ある時に依つて攻撃の威力を発揮すべき方法も、十年前と比較すると隔世の感ある程の進歩を示してゐる。従つて今後戦争を予想した場合には、敵味方共に空軍の盛んなる活躍をなし、而して是が戦争の勝敗を決定する上に重大なる使命を有すること想像せずにはゐられない。(中略)而して甚だ不吉であるが、実際当市が大なる威力を有する敵機の来襲を受けたとしたら、誠に戦慄を感ぜざるを得ない次第で、此場合一体誰が当市防御の任に当るべきであるか、斯かる場合極めて手不足になつてゐるのを想像される。軍隊の力のみに此仕事を委して、果して本市の安全を期する事が出来るであらうか。又、仮に大部隊の軍隊が当市にあつたとしても、飛行機の来襲といふ事の性質上、独り軍隊のみで果して災害を免れ得るだらうか。

 このように自問自答した坂本総司令は、「本市が敵の空襲を受たと仮想した時、本市を災禍の中より救ひ、本市の保全を期する途は、唯々本市民の統制ある行動と郷土愛の精神より迸出する協力一致の活動とがあるのみ」と述べるとともに、今回の防空演習は「第七師団の演習と云ふよりは、寧ろ本市民の演習たるべき性質を多分にもつてゐる」と自警隊員のみならず一般市民に対しても、「今回演習の眼目たる燈火管制」をはじめその積極的な支援と協力を求めたのである。
 2日間にわたる演習自体は、「高射隊一斉射撃し/遂に敵機を撃退す」(9月29日付「函毎」)、「我の損害僅少/敵機遂に撃退さる/防衛軍の奮戦功を奏す」(9月30日付同前)などの見出しから明らかなように、来襲した「敵機」を撃退して、無事に終了した。
 このような防空演習はその後、昭和10年7月、翌11年6月にも実施され、日中戦争開始後の同12年11月には、帝国在郷軍人会函館市第2分会宝班が、津軽要塞司令部監修のもとに『防空問答』という100ページ弱の冊子を作成するなど、防空思想の普及を図っているが、その市民への浸透は必ずしも容易ではなかった。例えば、昭和13年6月7日、8日の2日間行われた防空訓練に際し、日魯漁業に勤務する48歳の男性職工は、灯火管制について「俺は斯んな面倒臭いものに参加しないのだ」と述べてあかあかと点灯し、警官などの注意に対しても「面倒臭いから駄目だ」と応じなかった(6月9日付「函日」)。そして、この2日間の訓練期間中に取り締まりを受けたのは、諸車無灯火265件、遮光不完全180件、隠蔽不完全303件、右側通行129件、喫煙通行20件、盗難事件1件などであった(6月10日付同前)。
 函館市は、同じ昭和13年8月9日から11日までの3日間、道内の7市273町村で防空訓練が実施されるのにあわせ、再び「秋期防空訓練」を計画した。訓練の重点は、警報の伝達、防火および防毒の総合訓練、灯火管制におかれたが、この「訓練ハ内務大臣ノ命令ニ依リテ実施セラルゝモノナルヲ以テ故意ニ燈火管制規則ニ従ハザル者アル時ハ處罰サルゝコトアルベシ」と計画書の備考欄に記されているように、訓練参加者のみならず、一般市民に対しても一定の強制を伴っていた。
 訓練の末端における活動単位は防護団という地区別組織であったが、函館市は昭和14年4月、従来の消防組と防護団を改組統合して、新たに本部および9分団から成る警防団を新設するとともに、市役所内の組織にも、新しく警防課を設置し、その下に警備係と防空係の2係を置いた。このような機構改革の理由として、『函館市昭和十四年事務報告書』は、「近代戦ノ性格ハ国家総力戦ニアリ、就中航空機ノ異常ナル発達ハ戦線ノミナラズ後方ノ国土ヲモ戦闘圏ニ包含スルニ至レリ、殊ニ都市ハ戦争目的遂行ノ重要ナル攻撃目標破壊対象トナリタリ、茲ニ於テ都市ソレ自体ガ一ノ堅固ナル要塞トナリ市民ソレ自身ガ一ノ精鋭ナル軍隊トナラザルベカラズ」という点に加え、過去に再三大火を起こした函館市の「苦キ体験」の2点をあげている。ちなみに、昭和14年度の場合、5月15日から17日まで、8月24日から26日まで、10月2日から4日まで計3次にわたる防空訓練を実施し、「多大ノ効果ヲ収メツツ以テ実戦下ノ空襲ニ備ヘ」ていた(同前書)。
 この第3次防空訓練終了後の10月5日、函館新聞社は、斉藤与一郎市長以下の関係者を集めて防空座談会を開いている(10月7日〜11日付「函新」)。そこでも、「命令が多すぎた」、「家庭防火群の問題」、「モンペ改良の必要」などの指摘があり、井上金之助火防連合会長は「警防団と防火群の訓練だといふ気持から、一生懸命訓練をやつてゐる直ぐ側でノンビリ見物してゐる民衆が多い事は遺憾だ、一般民衆や通行人も必ず避難をする心構へを見せなくては物にならぬ」と発言している。
 以上みてきたように、すでに日中戦争は開始されていたとはいえ、いわば年中行事的に実施される函館市の防空演習は、いささか緊張感を欠如していたのであった。そして、このような函館市民の防空訓練の成果が試されるのは、それから6年後のことである。 
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