通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
4 戦時下の市民生活と7月14・15日の空襲

「生活刷新実践要綱」の制定

「要綱」と市民生活の変化

防空演習と市民

函館空襲

北部軍の被害状況

全滅した連絡船

函館市域の被害

函館市の戦没者

「要綱」と市民生活の変化   P1279−P1281

 しかしこの要綱は、戦時体制の進展とともに急激に函館市民の生活を圧迫し、その内面から、戦時下という意識の創出に大きな役割りを果たしたのである。この要綱が成文化の上、活字化されたのは、前述のように昭和14年1月のことであるが、個々の内容については、それ以前から「実践」が期待されていた。例えば、昭和13年9月6日、函館市内の小学校長会議で「小学校教員戦時対応生活刷新申合実践事項」が決定され、「時間に関する事項」「被服に関する件」「婚姻葬祭に関する事項」「宴会に関する事項」について、それぞれ集会の時刻厳守、被服の新調を見合わせる、煩瑣冗費を省く、簡素化など具体的に「厳守事項」が求められている(9月8日付「函日」)。また、12月10日の入営にあたっては、祝入営旗を1本にするという市出征軍人後援会の制限を守るように、市長から注意が出された(11月26日付同前)。
 第8項「社交・儀礼等に関する事項」には、「函館地方防空兵器献納運動への自発的寄付の件」が指摘されているが、この運動は、50万円を目標に同13年中に開始されたもので、函館地方はこの運動が盛んであった。同年9月13日現 在では、その額が11万6907円55銭とあり、市役所の吏員も、9月から年俸者は月収の100分の2、月俸者は100分の1を提供することになった(9月10、14日付同前)。その後の献金額の堆移をみると、10月3日では15万82円にすぎなかったが、翌4日には22万円を超え、以後、10月5日27万1791円17銭、10月10日30万3267円66銭、10月26日35万7625円82銭、11月4日40万9646円34銭、11月27日45万6347円36銭といった具合に順調に増加した。12月に入るとやや伸び悩むが、12月28日には目標額を突破、最終的には52万3363円53銭を献納した(昭和14年4月29日付同前)。
 同じく第8項の関係では、年賀状や暑中見舞を「力めて整理すること」とあるが、この時期の函館郵便局の年賀状受付件数をみると、昭和11年262万299通、昭和12年121万5000通、昭和13年93万2157通、昭和14年68万2488通と年を追って減少し(12月28日付「函日」)、昭和15年元旦に配達した年賀状は、わずか22万7366通にすぎなかった(1月12日付「函新」)。函館新聞によれば、年賀状の最高記録は昭和12年の142万通であり、これと比較すれば「問題にならない」と報じている。
 同じく第8項に関連するが、昭和15年からは花見でのハイヤー・タクシーの使用が「自粛」となり(4月13日付「函日」)、翌16年には、花見でのドンチャン騒ぎが禁止された(4月17日付「函新」)。
 市民生活を「刷新」して 「戦時対応」を行うべく策定された「実践要綱」は、その実質化が徐々に進行していった。さらに、これに関連して、市民生活を取り巻くさまざまな社会的活動が逐次規制されていったことも、戦時下の意識を市民に抱かせた。一例をあげれば、商店法(昭和13年3月26日、法律第28号)の制定により、商店の営業が昭和13年10月1日からは原則として夜10時までとなり、その後の営業は禁止されたことである。この法律の本来的な目的は、当時の商店の営業時間が冗長・不規律で終業時間が深夜に及ぶことが多く、商店使用人の保護を図ることにあった。この適用を受けるのは、料理店・飲食店を除く物品販売業(卸、小売商)や理容業で、これに違犯した場合には、500円以下の科料・罰金が課せられた。
 このように、商店法は労働者保護の視点から制定されたものとはいえ、同時にこの法が、戦時経済統制と、機能の一部を担っていることも、これまた事実であった。この商店法施行後の商店街の反応をみると、大門街の商店は、10月10日、時間延長運動のために代表が札幌へ出かけ(10月12日付「函日」)、実施半月後の「大門盛り場某商店」では、「売上は三割減となり、不景気時代だから大痛手だ」と述べ、「十字街の一商店」は、「これは商店員に惰弱を奨励するようなものだ。…売上減より商店員の堕落が問題だ」と述べている(10月16日付同前)。
 だが、このような規制は、順次他の業界にも波及し、翌14年7月17日からは、興業界でも午後10時までに終了することとなった(7月18日付同前)。そして、昭和15年1月1日からは商店術のネオンやイルミネーション、広告塔、屋外投光器の設置が廃止となり(12月31日付同前)、市内の商店街からは活気が失われていった。昭和16年の元旦は、7年ぶりに雪のない正月となったが、2日の初売りも時局がら「自粛」の上、デパートと一般商店は休業した。また、雑貨・荒物店は3日まで休業の事態となった(2月3日付同前)。このようにして、統制された消費生活のなか、市民生活の非常時・戦時色はますます強まり、この年の12月8日、日本はアメリカとの無謀な戦争を開始するのである。
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