通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 「体制宗教」化で苦悩するキリスト教 |
「体制宗教」化で苦悩するキリスト教 P1225−P1230 既述のように、大正期の函館キリスト教界は大正6(1917)年における天主公教の「神社参拝」拒否問題に象徴される如く、「異宗教」として相対的に自由な立場で、自らの神観念を吐露していた。しかし、昭和12(1937)年の日中戦争を一大転機にして、日本国全体がファシズム化に転ずるや、「異宗教」たるキリスト教も、「異宗教」たることは容れられず、他の神道・仏教・教派神道と同じく、「体制宗教」として一元化されていくことになる。キリスト教も、国を挙げての体制化に抗することはできなかったのである。その当時の様子を伺う一環として、カトリックに限って年表化したのが表3−34「カトリック教会と函館」である。また、当時の各教会の求道者・入信者を示したのが表3−35「昭和期におけるキリスト教の信徒数」である。
函館においてそれが決されたのは、各派が「教会規則」制定し、許可を受けた昭和17(1942)年3月のことであった。 したがって、この決定に従わず、「体制宗教」らしからぬ言動ある場合には、「邪宗教」者と目され検挙の対象となった。 実は、この信教の自由を真向うから踏みにじる愚挙が、全国一斉に、昭和17年6月26日に行われた。検挙対象となったのは、旧ホーリネス系のきよめ教会と聖教会の教職者であり、その検挙理由は再臨信仰であった。 そのうち、旧ホーリネス系についていえば、これはプロテスタントの一教派であり、日本にあっては大正6(1917)年、中田重治によって創立されたものである。このホーリネス系は、昭和8年以来、「日本聖教会」と「きよめ教会」に二分、さらに「きよめ教会」から昭和16年に「東洋宣教会きよめ教会」が分裂した(稲葉克夫「日本基督教団弘前住吉町教会(旧きよめ教会)弾圧事件」『年報市史ひろさき』2)。 昭和17年6月26日、日本基督教団弘前住吉町教会の辻牧師が検挙され、獄死した。当時の検挙理由とは、特高検察の言い分によれば大略、こうである。 「彼らはユダヤ民族の支配統括する世界一元国家の建設を目的とし、わが国体を否定し、神宮の尊厳を冒とくしている」(『特高資料による戦時下のキリスト教運動』2、新教出版社)。 検察側は、キリスト教の一元的世界観を全面否定して、検挙に及んだのである。この悲運な検挙は、決して対岸の火事ではなく、ここ函館においてもあった。 「昭和十七年六月二十六日。この日は、我等基督者にとって忘るる事の出来ないプロテスタント迫害史の一頁を印した日である」と、その弾圧手記『その朝』を認めた松原繁は述懐する。出所後に回想して綴ったという『その朝』の一字一句は全て私たちの胸を打つ。松原が身重の妻と2女児の傍らから、不安を押し隠しながら特高室に向かうその心情、威嚇的な尋問の後に放たれた留置場。神社参拝(偶像問題)を中心とした神観念・国家観の取調など。そして10月5日、初めて目見える子と妻と二女児が待つ我家へ向かう杉原の姿。 函館のこの検挙時の取調べの中心もやはり、前述の如く、神観念と国家観にあった。天主公教の側から「神社参拝=偶像崇拝」のことが主張された大正6年の時点でもかかる検挙は勿論なかった。同種のことを問題にしながら、昭和17年においては一斉検挙・弾圧となったのである。 この昭和17年という年は、函館のキリスト教界にとって、実に苦難の年であった。天主公教の元主任のマルセル・フールニェ宣教師が、去る同15年に検挙されていたことが、この年の7月13日の「新函館」に、「闇にスパイの眠が光る 躍る仮面の怪宣教師/悪の草/函館にも一件」という大見出しで報じられたのである。同紙は、このカナダ出身の宣教師を「操る偽神父の魔手」と捉え、この一件をもって、「函館市舞台の外人スパイ事件全貌」とも伝えている。 かつて、明治37(1904)年の日露戦争の開戦時にも、ハリストス正教会の教役者がロシアのスパイ容疑で函館要塞司令部により退去させられていた。それが今また、ファシズム下の対外関係を理由に、スパイ嫌疑で弾圧の憂き目に遭っている。 「異宗教」たるキリスト教を、国家権力によって「体制宗教」化しようとも、真の意味で、心の自由を奪おうとしても、奪いえないことを、昭和17年の2つの弾圧事件は示しているといえまいか。 以上の考察を踏まえ、函館における近代宗教史ないしは文化の特色をごく簡単に要約しておく。 1 近代函館の基本的な宗教構図は、「自宗教」を自認する神道・既成仏教および自らの本原的教義を改変した教派神道によって構成される「体制宗教」と、「邪宗教」に始まりながら相対的な信仰の自由を達成していったキリスト教が形成する「異宗教」という2つの世界観からなり、それが時には対立、時には併立していた。これは別言すれば、近代函館における思想・宗教ないしは文化の多面性を示している。 2 この「体制宗教」と「異宗教」の2大宗教観の中でも、前者に属する日蓮宗の「日持」伝承は同宗の教会・結社の量的進出と相俟って、函館の「体制宗教」をより一層体制化させた。この函館宗教界の体制的体質をさらに底上げないし強化したのに、教派神道たる天理教や金光教の「体制宗教」化の営みがある。とりわけ天理教に見られる圧倒的な教会・結社の進出を支えた受け皿は女性信者であった。 3 したがって、この女性が戦時体制のなか、近隣に語らいながら獲得した信徒層の多くは、形式的な二重信仰者であり、ここに函館の宗教における都市性が看取される。 4 さらに、(1)の「体制宗教」化を図った天理教や金光教などの教派神道(一般に「新宗教」ともいう)の北海道布教をみると、そこには「宗教殖民型布教」と「都市型布教」の2形態が考えられ、後者が函館を舞台に展開した形態であった。この「都市型布教」の地・函館こそは、近代北海道における文化・宗教の受信地函館、中継地函館の顔であった。 |
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