通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3章 戦時体制下の函館 銃後の教派神道 |
銃後の教派神道 P1219−P1225
一方、29社に及ぶ結社についてみると、この結社に参画した信徒数は、939戸である。 こうしてみれば、天理教の教会・結社教とその教信徒数の量的多さもさることながら、教会の493人の教徒のうち女性が約62%、この教徒に導かれる6523人の一般信者のうちの約53%を女性が占めていることは、大いに注目される。この女性優位の構成比は、近代都市の宗教状況を考える上で、看過できない数字であろう。 従って、この教派神道の信仰に占めた女性の量に着目して、次に他宗派について眺めてみよう。 教会数では、天理教についで3教会と多い金光教の教徒数は男性239人、女性320人、信徒数は男性322人、女性476人というように、金光教の場合も、女性がその教徒・信徒数において男性を上廻っている。 この他、神習教・神道大数・御嶽教は資料的に不明のため、遺憾ながら全体像を把握しえないが、それでも3教派の信徒数では、ここでも女性の信者が多い傾向を示している。 では、結社の方はどうであろうか。表3−32−Bが如実に物語るように、御嶽教39社の信徒総数は1445人であり、その結社の代表者をみると、25社が女性、14社が男性という具合に、ここでも女性の優位が際立つ。 また、神道大数では、37社のうち、全く圧倒的な33社が女性、男性は僅か4社で代表を占めるにすぎない。この女性が優位を占めるのは、この他、神習教が8社中6社、扶桑教が3社中3社というように、やはり女性の代表者が男性を凌駕している。その中にあって、神理教1社のみが男性の代表者であるが、これは前述の構成比全体から見て、女性優位を覆す資料とは決してなりえない。 よって、教派神道において、その教会の教徒のみならず結社の代表者、さらには信徒の男女構成比から見て、圧倒的に女性の方が男性を量的に上廻っていたことが判明する。これは、ひとつに、男性が徴兵適令者の出征により量的に不足していることも考えられるが、より重大な要因は、女性にありがちな人生の苦難を考え抜こうとする内省性にあるのではなかろうか。彼ら女性はこの内省化を推し進めることを通して、「新宗教」=教派神道へと傾斜していったのではなかろうか。 実は、この内省的で悩める女性をさらに神仏の世界へと積極的に導く一大要因が、昭和の国策の中にあった。すなわち、政府は銃後を守る婦人たちに「戦ふ皇国婦人たるの自覚に徹せしむると共に必勝生活の確立に寄与せしむこと」を目的にした講習会を開催したり−亀田八幡宮にて開催−(昭和18年9月3日付「道新」)、「婦人を通じ神宮大麻奉斎の真精神を家庭に滲透させ、家庭祭祀の徹底によって日本精神の振興をはか」ろうと家庭祭祀講習会を催したりした−函館八幡宮にて開催−(昭和18年11月2日付「道新」)。婦人に神仏への機縁を与えていたのである。 このように、教派神道の各宗派は 「体制宗教」としての任を、女性を中心としながら実践していったのであるが、その具体的な姿を天理教の中に検証してみよう。天理教は、戦局が年々深刻化していくにつれ、「体制宗教」者として、「公益事業」に一層挺身していくことが、「事業報告」の中の「勤労奉仕」「国債購入運動」「国防献金」「金属品献納運動」「公共寄附金」「慰問袋」などの事業項目に垣間見ることが出来る(昭和16年『社寺宗教』)。前の64にも及ぶ天理教の教会・結社が、その地域の近隣に語らいながら、戦力協力体制そのものの勤労奉仕以下、慰問袋までの奉仕に勤めたのである。 この各種の戦争協力の奉仕活動の背景に、女性優位の教会・結社における宗教実践があったのである。逆説的にいえば、天理教に代表されるような教派神道に女性が自ら進んで入信ないし接近することは、戦争協力という大義名分を持つため、体制の側からも、ある意味では、歓迎・保証された宗教実践でもあった。かかる体制的保証が一方であるからこそ、天理教は夥しい数の教会・結社の信仰網を函館地域にくまなく張りめぐらすことが可能であったのではなかろうか。 戦時下において、「体制宗教」として身を挺したのは、何も天理教に限るものではなく、教会数において天理教につぐ金光教も同じであった。既述したように、金光教の全道的な布教活動も、昭和に入り、教会を10か所に新設するなど順調であった。戦局が難渋するにつれ、「信忠孝一本」のスローガンのもと、各教会の婦人会・青年会は活発な活動を展開した。昭和16年には、早くも「金光教報国会」を結成し、銃後を守る婦人たちは、愛国婦人会・国防婦人会の名のもと、例えば、出征兵士の見送り、英霊の出迎え、兵士の留守宅慰問、英霊宅の弔問などに余念がなかった(『金光教北海道布教百年史』、金光教北海道教師会)。 以上、「新宗教」=教派神道の「体制宗教」としての活動の実相を眺めてきたが、最後に、キリスト教の昭和期における動向を見てみることにしよう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |