通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 国家神道の要としての神社界 |
国家神道の要としての神社界 P1210−P1213 昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の慮溝橋で日中両軍の戦端が開かれるや、函館市民の日常生活は「世は非常時です 精神総動員の秋、生活の改善は先づ家庭」(昭和12年11月11日付「函新」)という歌い文句で、身近かな所からの「近代天皇制」ないしは「神社神道」の新たなる見直しが強いられるようになった。例えば、「新聞雑誌などに掲載せられるゝ御尊影は不敬に亘らざる様取扱ひませう」とか「神棚を整理し大麻を奉載し一家揃つて拝礼しませう」(同前)という具合に。 この新たなる「近代天皇制」ないしは「神社神道」の見直し要求は、一般に第1次近衛内閣が昭和12年10月12日に決定した戦争協力の強化運動たる「国民精神総動員」運動に基づいて現実化したものである。この運動に即して、「近代天皇制」の思想的推進母胎である函館神社界は、これまで以上に、「郷土の運動として、一般祭祀を厳修」し併せて「精神作興」するよう、渡島神職会と渡島氏子総代会を開催した(昭和12年10月26日、同11月10日付「函新」)。 神社界はこのように国家神道の直接的推進体として、思想善導の先頭に立った。一定の戦果が報いられるや「祝捷・大提灯行列」の場となり(昭和12年11月13日付同前)、逆に苦戦覚悟の対米英宣戦布告が下されるや、戦勝祈念の「必勝函館市民大会」の場と化するのである(同16年12月11日付同前)。 神社界は、他方では「大漁祈願祭」(於函館八幡社、昭和18年4月14日付「函新」)や「海路平安祈念」(於船魂神社、同4月20日付)というように、近世以来の漁民たちの現世利益に応える、言うなれば、神社としての本来的な宗教機能を果たすことも勿論、忘れはしなかった。が、それでもその時期において神社界に課された宗教使命は、やはり「神社神道」「国家神道」の円滑なる推進であった。 日本軍による太平洋戦争を決定付けた昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を機に、戦局はなお一層困難を極めるようになった。年ごとに、否、日ごとに、函館市民は勿論、全国民は「億兆一心神国必勝の熱祷を捧げ神明照覧の下に益々戦力増強に挺身し、誓って米英を撃滅」させるべく、「一億総神拝」の励行を強要されていった(昭和18年12月7日付「道新」)。
一例を示せば、こうである。「決戦下に迎へた肇国記念日 護国の神前に誓ふ 護国神社の紀元節祭」(昭和18年2月12日付「道新」)、「今次決戦の必勝祈願を行ひ」「東郷元師追悼会/函館八幡宮で挙行さる」(同5月31日付同前)、「国威宣揚祈願祭/函館八幡宮で厳粛執行」(同8月17日付同前)、「大東亜戦争二周年報告と皇軍将兵武運長久祈願祭八幡宮で執行」(同11月13日付同前)、「必ず勝抜く三年目/神前に誓ふ決意も固し」(於函館八幡宮其の他の神社)(同12月8日付同前)というように。 しかし、決戦の戦局は、日ごとに苦戦を強いられた。昭和18年3月10日の陸軍記念日を期して、函館市内の神社なども、「勝つためだ不要の金属は供出しよう」を一大スローガンに金属回収に応じざるを得なくなっていた。 米軍がマーシャル群島上陸を開始した昭和19年2月1日に至ると、決戦非常措置を構じるまでに追い込められる。こうした大戦状況を背景に報じられた昭和19年7月4日付の「滅敵祈願祭、函館八幡宮で、七日執行」と見出しする「北海道新聞」は、その意味で衝撃的である。すなわち、「戦局いよいよ重大化しつつある折から、七日は弘安四年畏くも亀山上皇が石清水八幡宮に敵国降伏の御祈願あらせられた満願の日に当るので(中略)七日から十三日まで全国の八幡宮で覆敵の祈願祭が行なわれることとなった(中略)元冠の国難をしのび神威の顕輝を仰いで市民の戦意を昂揚する」。 当時の神社界、否、日本国民はこの昭和19年に至り、中世鎌倉期の元冠時における「神風」的再来を祈念したのであろうか、日本全国の八幡宮において「減敵祈願祭」を執行したのである。が、この大戦において、中世の歴史は決して繰り返されることはなかった。 それにしても、この当時、函館市民の神々の神通力に寄せる期待の大きさは、想像を絶する程であった。その一念は、当該期の児童の小さな心を覆い尽くしていた。次にみる綴り方はその一端をよく物語っている。 つる若いなり神社 新聞の論調も、昭和20年の海軍大尉が綴った「敵の動向と我必勝方策」なるコラムも、これまでの日本的精神論を総括するかのように、今時の大戦を「神と物との戦ひ」と位置付け、「思ひ知らせ日本の底力」と訴えるのが精一杯であった(昭和20年1月4日付「道新」)。 やがて、懸命に振りしぼる精神鼓舞からも、「滅敵祈願」の文字は消え失せ、内閣顧問談として伝える「必勝は必死と同意 持て、死ぬる覚悟−国民としての操守れ−」が端的に示すように、「必勝」は「必死」と置き換わってしまったのである(昭和20年2月8日付「道新」)。ここに至って、近代日本帝国主義が、神社界ともども敗戦を覚悟せざるを得なくなったことは、もはや多言を要しまい。 |
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