通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 仏教寺院の戦争協力 |
仏教寺院の戦争協力 P1213−P1219 明治〜大正期における仏教寺院の第一義的な機能が、檀家の祖霊供養にありながら、体制との関わりでは、「自宗教」として近代天皇制の護持を任とする「体制宗教」であったことは、この昭和期に及んでも全く変わりはなかった。前の神社界と同じく、昭和12年の日中戦争を機にした軍事化の深まり、昭和16年を転機にした太平洋戦争への突入とともに、仏教寺院もその「体制宗教」としての使命を全うすることを余儀なくされた。年ごとに深まる軍国化の中で、近代天皇制の経済的基盤の整備のためにも、仏教寺院は神社界とともに、「氏子・檀家を総動員」し一寺・一教会毎に貯蓄組合を組織するために挺身していた(昭和17年2月26日付「函新」)。これも、広義には、当時の「新体制」と言われるファシズム化する近代天皇制の推進の一環に他ならないが、やはり何と言っても、宗教としての圧巻は、「大日本宗教報国会」の結成参加であろう。この報国会が中央において組織されたのは、昭和19年9月30日のことであるが、北海道のそれは、それから約3か月後の12月29日のことであった(昭和20年『大日本各派宗教報国会』函館分会)。 「大日本宗教報国会」に連なる北海道支部における目的も、「宗教報国精神ノ昂揚」と「宗教教化ニ関スル国策ノ浸透具現」にあることは言うまでもない。が、ここでより大切なことは、従前の「自宗教」と「異宗教」の別なく、神道・既成仏教・教派神道そしてキリスト教も、全て「自宗教」として「体制宗教」に統合され一本化された点である。 このような全宗教の「体制宗教」化の中で、仏教寺院は以前にも増して、近代天皇制への推進を図ることになる。その一例として、「寺院規則」に盛り込まれた「定期法要」を指摘できよう。例えば、「称名寺寺院規則」には、定期法要の「聖日法要」として、修正会(1月1日)、紀元節祝聖会(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、天長節祝聖会(4月29日)、明治節祝聖会(11月3日)、大正天皇祭(12月25日)などが設けられている。これは全く既述した明治時代における神社の祭礼を彷彿させる年中行事ではないか。浄土宗の称名寺がこの他「年中法要」として、自宗派独自の行事を盛り込むとはいえ、祭礼行事の一半に、神社と同一の「聖日法要」を行事化したことは、仏教寺院の「体制宗教」化の更なる深化を示すものとして、大いに注目されるところである。
「法要ノ席上ハ時局下、日本国民トシテ即応スベキ諸点ヲ敷演シ、殊ニ新体制ノ根本義タル大御心ヲ奉載シテ臣道ノ実践ニアリ、即チ上御一人ニ奉対、日々夜々ニ自己ノ職場ニ於テ奉公ノ誠ヲ尽以テ皇運ヲ扶翼シ奉ルベキ旨ヲ強調シ、一面祖師ノ立正安国ノ主意ヲモ合説ス」と。 この一文に、仏教寺院の「体制宗教」者としての面目が躍如していることは火を見るよりも明らかである。 ところで、こうした「体制宗教」としての仏教寺院は、函館においてこの昭和期にどれほど存在したのであろうか。史料的に判明する壇家数も含めて表化して示すと、表3−30−A「昭和期における仏教寺院の檀信徒数」のようになる。 函館区内における仏教寺院は、高龍寺から浄光寺に至る32か寺であるが、広義の仏教施設は、実はこれに終わらず、「教会所及び結社」(表3−30−B)に見るように、仏教会所が21、仏教結社が16も存在したのである。この仏教会所と結社の中で、何よりも注目されるのは、日蓮宗系が各々8所10社と他宗派に比べて圧倒的に多いことである。
また、この宗教の都市性と併せて着目されるのは、やはり日蓮宗系の教会・結社が多いことである。このように、函館において日蓮宗が際立つ背景として、第一に既述の「日持」伝説の存在、第二にこの伝説の伝承母胎ともいえる実行寺の主管する碧血碑祭の挙行などがあげられる。さらに言えば、この戦時期の日本国民・函館区民の多くは、昭和の国難を脱するよすがとして、中世鎌倉期の「元冠」における「神風」なるものを思い、ひいては日蓮主義に大きく傾倒したのではなかろうか。前述した弘安4年の亀山上皇の石清水八幡宮祈願に因んだ日本全国の八幡宮による国難回避などは、まさにそうした事例に他ならない。 明治から大正期において、既に「日持」伝説と日蓮宗実行寺との表裏一体的な結びつきは確認されていたが、そうした前提を踏まえつつ、函館の昭和仏教史は、なお一層日蓮宗に色濃く彩られることになる。その契機をなしたのは、ひとつに、弘安海なる宗教団体が碧血碑前に牛の像と4万円相当の五重塔を寄進したことが挙げられる(昭和11年7月30日付「函毎」)。これを受けて、函館市ではその翌年の6月20日、市主催の第1回碧血碑慰霊祭を、市長、収入役、要塞司令官以下100余名の出席で挙行した(昭和11年度以降『祭典関係綴』教育課)。日中戦争の前夜に、日蓮宗寺院の実行寺が管理する碧血碑祭が市の主催で執行された意味は少なからず大きい。 明治8(1875)年に建立されて以来、碧血会なる篤志家たちによって祀られてきたこの祭りが、昭和12(1937)年に市の主催となったことが、再び引き金となり、その6年後の昭和18年には「碧血碑を市に移管しよう」という動きが活発化することとなった(昭和18年6月16日付「道新」)。 函館市と碧血会が祭祀執行によって歩み寄りを見せると、勢い従前の実行寺に伝承される「日持」伝説もいやが上でも世間の注目するところとなる。「函館新聞」(昭和13年10月9日付)が伝える「日持上人霊場大法要を厳修」の見出し記事はまさにそれである。この中で同紙は、「日蓮の高弟・海外布教の先駆者日持に因んだ霊場」での大法要は、津軽要塞司令官の崇敬に依るものであるとも伝えている。従前の「日持」伝説の伝承顕彰の主体はもっぱら、実行寺を中心とした日蓮宗寺院であったことを考えれば、この昭和10年代に入り、その伝承媒体が拡大されたことになる。 ここに至っては、日持に対する関心が高まることは必定で、昭和16年4月には「北方開発の傑僧 日持聖人の銅像」が市内の中学校教師により実行寺に寄付されることとなり、衆目の関心事となった(昭和16年4月9日付「函新」)。 このように、日蓮宗が函館仏教界において、碧血碑祭や「日持」伝承を通して、自己宣伝して行ったということは、前の要塞司令官との関わり方から考えても、その「体制宗教」としての使命をより一段と強固にさせることを意味する。 一方、他の「体制宗教」の高龍寺においても、昭和12年の「国民精神総動員」を受けて、自寺で堅忍持久の不動精神を鍛えたり(昭和13年2月25日付「函新」)、同じく天祐寺が心身の錬成を目指して護国道場を開催するなどして「体制宗教」の任を全うすべく勤めた(昭和18年3月20日付「道新」)。 しかし、対米英宣戦に始まる太平洋戦争への突入後にあっては、そうした「体制宗教」の内実化も功を奏することなかった。昭和16年以後の戦局は難渋を極めるのみで、前の神社界と同様、寺院も「常住寺の大梵鐘 けふ献納」(昭和16年12月12日付「新函館」)あるいは「仏像も決戦場へ 日蓮像を始め続々応召」(昭和18年6月30日付「道新」)というように、仏像仏具の献納による物を通した戦争協力へと変化していった。 太平洋戦争が既述のように、米英側の物質戦争に対する日本側の精神戦争構図をとるとき、寺社によるかかる金属物の供出にまで立ち至ったということは、戦争の終局ももはや眼前に差し迫っていた。 「体制宗教」の物心両面にわたる懸命なる戦争協力も、徐々に限界を露呈し始めたある日、その「体制宗教」内の神社界と仏教寺院との間に、見解の相違が表面化したことがある。これは「体制宗教」一色の当時期にあっては、少しく注目をひく問題でもあり、簡単に触れておこう。それは忠霊の公葬を仏式で行なうか、神式で行なうかの問題であった。この問題は、昭和18年の頃、市会や市文化委員会にまで波及した。 「北海道新聞」(昭和18年11月12日付)は、これについて、「忠霊公葬は神式 神祀会函館部会正式上申」と題して、大略こう報じている。 函館市の忠霊公葬は支那事変以降、仏式により執行してきたが、戦死者が増加するにつれ、合同葬が定着してきた。これに対し神祇会側からは、仏教は国体と相容れぬという国体明徴の立場で異を唱えるものもある。彼らによれば、仏教では死後、極楽十万億土に行くが、これは神道の七生報国という精神と相違するという。 この忠霊公葬の扱いは、ある意味では、神道と仏教の来世観を問う重大問題であり、かかる難題を採り上げたのは、全道で函館市が初めてであるとも、同紙は伝えている。これに対して、「忠霊公葬は神式にせよ」の結論が出たのは、翌19年9月の「第七回北海道協力会議」の第一部会審議においてであった(昭和19年9月6日付「道新」)。宗教的には、かかる問題は根本教義にまで発展する可能性もあるが、勿論それには至らず、妥協という形で結着をみた。神道・仏教ともに、等しく「体制宗教」を担うとはいえ、神道側がこの種の問題を自ら持ち出し、自ら「神式」公葬化に導いた点に、近代宗教界に占める神道の位置を改めて知る思いがする。 ともあれ、昭和期において、「体制宗教」に一元化されていく様子を、以上のように神社界と既成仏教界に少しく眺めてきたが、明治中期から大正期において、擬似「自宗教」ともいうべき動きを示した「新宗教」=教派神道は、その昭和をどのように活きたのであろうか。 |
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