通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
3 戦時下の港湾産業
3 機帆船輸送

運送貨物

石炭輸送施設

日通の進出

岐線とエプロン

運送貨物   P1171−P1173

 青函連絡船の貨物輸送需要は、一般貨物船の軍需輸送船への徴用、転化、沈没により、いよいよ高まる。中国人強制連行、その労働力化という国際的戦争犯罪を犯して有川埠頭の造成を急いだが、間に合わず、ここに、国鉄でありながら、機帆船による貨物海上輸送にも乗出さざるを得なくなった。
 機帆船、帆船、艀など小型貨物輸送船の全道最大の基地である函館では、この機帆船による海上輸送が可能であった。前述の通り、昭和17年2月15日、鉄道と機帆船の一貫輸送を開始した国鉄は、折からの秋冬繁忙期の打開策として11月4日から翌1月7日まで、浦河丸、第五日高丸、幸丸の小型汽船を就航させ、馬鈴薯、パルプ材の輸送にあてた。
表3−22 青函間機帆船貨物輸送状況
           単位:トン
品目
昭和17
昭和18
コークス
澱紛
政府木炭
ガス・木炭
海軍木炭
パルプ
軍用材
ベニア板
挽材
包装紙
ドラム缶
塩乾魚
玉ねぎ
肥料
雑穀
飼料
大豆
馬鈴薯
マンガン
昆布
鮮魚冷凍魚
その他
5,364
6,539
5,416
439
1,025
1,828
2,656
1,541
15
228

954
1,919
925
2,849
1,396
1,058
3,183
90
791
1,854
804
28,467
9,637
12,378
2,958

11,998
6,085
6,781

674
1,434
5,419
243
11,987
4,959
3,116
2,033
29,076
540
3,663

7,509
合計
40,998
148,907
『青函連絡船史』より
(注)計算上は合計が違っているが、出典に準じた
 機帆船による貨物輸送状況は、表3−22の通りである。昭和17年の機帆船輸送は4万3200トン計画の処、実績は4万998トン、18年は計画19万3000トン、実績14万8907トンであった。この表には石炭は無い。
表3−23 青函間月別石炭輸送量(昭和20年)
            単位:トン
月別
輸送量
対前年比
4月
5
6
7  (空襲)
8  (敗戦)
110,395
134,626
133,827
77,172
98
+0.8%増
+6.8%増
+10.8%増
−38.2%減
−90.4%減
『函館駅50年の歩み』より
 機帆船による本道石炭の本州向け緊急輸送は、昭和18年に策定、同年10月から画期的な列車ダイヤ改正を行い、また機帆船により北海道炭の東北諸港中継緊急輸送を策定、昭和19年3月から月間6万トンの輸送計画をたててこの完遂に努めた(『青函連絡船史』)。毎月6万トン石炭輸送という計画は、昭和18年の実績15万トン弱からみて、過大に過ぎるようであるが、驚くべきことに、実績は毎月6万トンをオーバーしたようである。『函館駅50年の歩み』に、昭和20年度における青函間月別輸送量が、部分的ながら、次のように記されている。20年4月は19万4000トンで、前年比13%減。だから、19年4月は、それ以上だったわけである。20年7月、8月に至って、目立って減少するが、その時点まで、毎月6万トン以上は、確実に送炭していたわけである。20年の青函間月別石炭輸送量は表3−23の通りである。なおこの年の青函間輸送量総計の47%が石炭であった。
 昭和58年発行の『先駆−函館駅80年の歩み−』には、「石炭輸送のため青函間に就航した機帆船の数は十隻で、一日の航送量は数千トン、橋谷岐線だけで一日にセキ号五〇車の取卸しを強行した。またこの石炭荷役のためには男子不足のため学生、婦人まで動員された。……またこの頃は当駅からの石炭航送実績は毎日直接中央の軍最高幹部へ報告されたといわれる」と記されている。この「男子不足」のため動員されたのは、学生、婦人だけでなく、中国人強制連行者も加えられていたのは、先述の通りである。
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