通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
3 戦時下の港湾産業
2 国鉄の施設強化

有川埠頭新設

有川埠頭新設   P1170−P1171

 貨車航送船の増強は、必然的に函館・青森両港の貨車航送船発着用埠頭の新設を余儀なくせしめる。それは2種類ある。第1は、貨車航送等専用埠頭の新設で、これが有川埠頭である。第2は、貨車航送船以外の機帆船での貨物を取扱う物揚場の新設である。
 有川埠頭は、昭和16年4月に起工、300万円を投じて同19年完成した。第1岸壁は昭和18年12月、第2岸壁は19年10月完成した(第3岸壁は未完成)。その構造は、函塊基礎岸壁で、平均干潮面以下10メートルまで浚渫し、厚さ2.5メートル間に栗石を充填し、それに高さ8.5メートル、幅6.5メートル、長さ9メートルの函塊を据付け、その背面に裏込栗石を投入したもの。函塊の内部にコンクリート、背面に砂、栗石を充填し、その上に平均干潮面以上4メートルまで上部コンクリートを充填し、沈下せしめた。すべての完成は、昭和26年である。この場所は五稜郭駅の海側、港町地先水面埋立地9万2855平方メートル(運輸省埋立)にある。函館駅と直結する従来の連絡船埠頭は、以後、若松埠頭と呼称することになる。この埠頭の立地する若松町から北へ海岸町、万代町、浅野町、港町と続くのである。
 有川第1岸壁、第2岸壁共に延長170メートル、水深7メートルで、繋船能力は各8千総トン、各1船席(1パース)である。終戦時未完成の第3岸壁は、延長139メートル、水深7メートルで、1パース、8千総1トン隻係留。30トンコンペア2基を持ち、1日平均貨車18車540トンの能力を持つ。
 函館建設業界の雄、瀬崎初三郎は第1岸壁新設工事を受け持ったが、「戦争突入のため工事資材の欠乏、労務者不足、諸掛の高騰に苦慮しながらも工事を続行した」と述べている(『函館建設業界史 道南の槌音』)。労務者不足の理由は無茶苦茶な青壮年男子の無差別無期限の強制徴兵の結果に外ならない。その欠乏に対応するため、勤労報国隊の結成とその労働力化、学校生徒の大動員、朝鮮人労働者の大量投入に加えて、中国人4万人を強制連行、政府の手で鉱山、炭鉱、土建工事などの危険な重筋肉労働現場に配置した(中国人殉難者名簿共同作成実行成委員会『四万人の中国人強制連行の真相』)。その死亡者は6830名にのぼる。
 北海道には56事業所に2万人の中国人が強制配置され、うち3千名をこえる人々が亡くなっている(日本中国友好協会北海道支部連合会『知っていますか北海道での中国人強制連行、全道五十人事業所場殉難の記録』)。日本中国友好協会函館支部によると、函館では、次の市内5事業所に強制連行されている。

1、東日本造船函館工場(現港町3丁目、連行者数431名) 木造合板特攻艇建造
2、瀬崎組有川出張所(現港町1丁目)、連行者数299名) 有川埠頭造成工事
3、地崎組函館出張所(現有川桟橋付近、連行者数225名) 石炭荷役、艀積込など港運作業
4、菅原組函館出張所(現浅野町、連行者396名) 石炭荷役など港運作業
5、日本港運業会函館華工管理事務所(現港町1丁目、連行者数475名) 港運荷役

 これらの各事業所へ連行された中国人労働者は計1826名に達するが、その強制労働の実態については、本章第5節3で詳しく取り上げているので、ここでは触れない。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ