通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 6 写真の流行とその規制 写真ブーム |
写真ブーム P927−P930 函館で初めての「写真術講演」が、大正9年10月17日午後5時より函館カメラ倶楽部の主催で末広町海交倶楽部で行われた。講師は米国イーストマン社技師スパーリングと東京浅沼商会特派員の市岡理学士の2名。乾板とフィルムの感光材料、現像液や定着液など処理液についてのほかに、修整の話もあった。出席者は「区内の営業家、素人家」合わせて約50名であった(大正9年10月18日付「函毎」、梅川吉五郎ノート)。大正14年7月26、7日の両日には、東京の感光材料メーカーのオリエンタル社と写真雑誌フォトタイムス社の共催で、商業会議所で日本の有名作家による芸術写真展が開催されることになり、1日目の26日には「写真術の講演実験会」と題して次の講演が予告されている(大正14年7月26日付「函毎」)。 一、芸術写真に就いて 木村寅一氏 一、人像写真採光法 菊地東陽氏 一、修整法実験 伊藤龍吉氏 講師はいずれも当時の日本営業写真界の権威で、それぞれに著書も多数ある。この頃の作風はいかに絵画に近づくかというソフトフォーカス的撮影法やオイル印画、ゴム印画などの特殊な写真処理技法が全盛であり、これらを芸術写真と呼んでいた。この写真展は新聞によれば「一般写真界のために貢献せん」とあるが、オリエンタル社の人像用「オリエント」、アマチュア用「ピーコック」、営業用「オーケー」の印画紙など自社製品の宣伝が目的であったと思われる。 このような業者の働きかけもあり、この時期の写真の流行は想像以上に凄まじいものがあったようで、函館新聞は「写真趣味愈々盛んとなる」(大正10年6月25日)と題して次のように伝えている。「◇要塞地帯と云ふ関係上、従来は屋外で素人が写真を撮らうとするには面倒な手続きをせぬと許可にならなかったが◇昨今は漸次大目になって来た故でもあらう、写真機を持たぬと紳士の仲間入りはできぬと云った風に素人間にカメラ熱が盛んになってきた(中略)◇従来は殆ど旦那芸として顧みられなかった写真趣味もそれと共に非常に進歩して昨今では若い会社員とか学生間に頻りと持て囃されて、一寸郊外に出ると至る処にカメラを手にしている人々を見受けられる◇それ丈けに写真趣味の流行と向上とが窺われる」。 また「近来写真術の流行は大変なもので、郊外散策にはカメラをぶらさげている。髭を生やしたおじさん連はもとより商業、中学の生徒、商店の中僧連まで、殊に中等学校生徒は、十人のうち二人位の割合で非常に盛んである。写真機はベスト級のものも相当に出るがパールやりり−も初心者に歓迎されている。一方、写真の流行は女性向きにもなかなか盛んで、日曜日の停車場や大門付近はいろいろな写真機を提げた人々が見られ、革袋だけでも提げていないといささか巾が利かない様に思われる位だ」(大正10年9月22日付「函毎」)と、休日にはカメラないしはカメラの空ケースだけでも持って歩かないことには肩身が狭いという異常な状況であった。 大正11年(1922)春には、アマチュア向けカメラが前年比20パーセント以上も安くなり、材料も値下がりして一層写真がやり易くなった。函館日日新聞は、カメラについて「猫も杓子も之れからが好季節/写真機の選択が第一」の見出しで次のように伝えている。「近年の写真流行はすばらしい勢ひで天下をなびかし、猫も杓子も一寸の外出にカメラ持参のお出かけといふ盛況だ。写真機の本場は独逸、そして英米がこれにつぐ。英は割に着実な傾向があって急に流行を異ならせたり、値の高低もあまりない。米は格安の一般向きといったところで、現在価格の安いのと携帯便とで歓迎されてゐるベストなどを見ても直ぐ判る」(大正12年3月26日)と、写真の流行とドイツ、イギリス、アメリカ製輸入カメラの特徴を適確に報じている。 大正10年前後、函館はもちろん全国的に写真が大流行した。わが国における第1期アマチュア写真ブームである。その背景には、次のような要因が挙げられるだろう。 @一般の生活程度が向上した。 A第1次大戦後優秀なドイツ製カメラが安価となり容易に入手しやすくなった。 B取り扱いの面倒なガラス乾板から便利なフィルムに替わってきた。 C材料店が出現し、現像焼付を行ってくれる。 D固定焦点のカメラも販売され、初心者でも楽に写せるようになった。 E写真クラブが組織されて写真の研究がされるようになった。 F一部の人の道楽と見なされていた写真が、趣味として至極上品で紳士の嗜むものとされるようになってきた。 G新聞社主催の素人懸賞写真が開催され腕を競うようになった。 H要塞地帯の取り締まりが寛大になった。 中でも要塞地帯の函館にあっては、撮影者に一定の規則を遵守させる取り締まりの寛大さは、大きな要因となったと思われる(大正10年7月1日付「函日」ほか)。
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