通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

6 写真の流行とその規制
1 函館のアマチュア写真家

素人写真講習会

函館カメラ倶楽部と素人写真会

写真倶楽部の誕生と写真展覧会

写真コンテスト

写真ブーム

活躍したアマチュア写真家

昭和初期のアマチュア写真クラブ

素人写真講習会   P919−P920

 明治17(1884)年に新しい感光材料の乾板が函館でも使われはじめ、素人でも写真撮影が一段と容易になった。希望者もいたのであろうか、翌18年6月7日写真を教えるところが開場した。当日の函館新聞の広告「素人写真術翫撮広告」によると、「今米国ニ行ナハル独学写真ニ凝ヘテ諸君ガ勝手ニ写影セハ」次のような効用があるという。「山水郷市ノ風景ヲ思ヒノ侭ニ写シ取リ、猶人像写スハ、随意ニ手術ヲ施シテ情婦へ贈ル良手段。婚姻上ニ論ズレバ、写真ヲ互ニ交換シ、見合ヲ省ク簡易法。媒人口ノ患ナシ。工業商家ニ用ユレハ、器具物品ノ雛形ヲ見本ニ送ル大便利。其外有益限リ無シ」と。なお文中の手術とは、現在の現像・定着などの処理のことである。この素人写真講習会は、塚原伝次郎が、春日町24番地梅林邸内で開いたもので、費用は2枚写して写真薬品料として1人25銭。講師は春日町25で明治15年より営業している「北輝堂」多田野公平だった。多田野は東京の写真師北庭筑波の門人であり、北庭は函館出身の横山松三郎の高弟である。この講習会が開かれた頃の営業写真館での写真撮影料は、多田野は紙写3枚1組40銭、硝子写(湿板写真)は紙写の約半額、開業したばかりの三輪卯之助は同1組40銭、田本研造は同1組60銭である。これらと比較すると25銭の受講料は、特に高いものでもなかったように思われる。なおこの講習会の詳細については不明である。
 アマチュア写真家が確立するのは、明治30年代のことである。それまでは秘密扱いであった写真技術の解説書が出版され、また撮影者が自製しなければならなかった湿板が乾板へ、印画紙も同様に鶏卵紙からPOP紙に代わり、これらの技術革新が広く写真の普及に役立ったと思われる。33年、函館毎日新聞社では、コラム欄のタイトルに、乾板による写真撮影を指す「早取写真」という言葉を採用しており、ようやく乾板撮影が一般に浸透したことを物語っている。
 函館のアマチュア写真家たちが写真を持ち寄っての初会合「素人写真交換会」は、同38(1905)年7月16日、「恵比須町一六銀行即ち柿本質や本店」で開催された(同日付「函新」)。写真交換会といっても実際に写真を交換することではなく、それぞれが持ち寄った写真に対する意見を交換し合うことで、現在のアマチュア写真クラブの活動と基本的には同様である。幸いな事に翌々18日の「函館新聞」に当日の模様が次のように伝えられている。「第一回のこととて会場の配置其他には多少遺憾に思はれたる節なきにあらねど、写真は素人としては可なり見事に出来居たり。只だ出品の稍々少なかりしを遺憾とす」。写真の内容は良いが出品点数が少ないことなどが指摘されている。また出品写真の中に卑猥なものがあったようで「将来斯る猥褻野卑なるものは断じて排斥すべし。然らざれば会全体を非定せらるゝに至るべし。紳士の嗜好として飽まで上品にして雅致あるをこそ望まし」とたしなめている。初めての会合ということもあり、いろいろな戸惑いがあったものと推察される。作品としての写真を模索していたこの頃から、写真雑誌の影響も伴って、写真の芸術性探求が試みられるようになった。

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