通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 4 社会問題・社会事業 富豪の拠金と廉売 |
富豪の拠金と廉売 P794−P797 函館でも、8月14日になると、富豪の寄付金申出が相次いだ。渡辺孝平氏2万円、小熊幸一郎氏1万円、新潤次郎氏1千円、目貫禮三氏1千円、佐々木平次郎氏5千円、浜崎治助氏5千円というような寄付のニュースが紹介されるようになる(8月15日付「函日」)。特に渡辺孝平氏は、14日午前中、渋谷区長と面談、2万円を寄付することと、これを資金として時価より7、8銭安い米を売る差額を埋めるような方法をとれば、かなりの量の廉売ができよう、区にも種々の方策があろうが、区長、警察署長らの管理で、適正な廉売方法をとれば効果があるだろうと進言したと言う(8月14日付「函日」)。区会議員は、同じ14日午後、協議会を開き米穀廉売開始につき協議し、7人の委員に処置の一切を任せることとした。委員(前田卯之助、金沢彦作、恩賀徳之助、太刀川善吉、浜崎治助、宮本武之助、松田季蔵)は、同日午後8時まで協議して結論をまとめ、翌15日午前9時、記者会見して廉売方法を発表した。 この廉売方法の検討と併行して、函館商業会議所は、米穀問屋組合、米穀商組合の役員を招いて、米価調節について懇談していた。会頭、警察署長も出席していて、業者間の問題点など内情も聴取、区民の生活苦も考えれば、誠意をもって米価引下げに努力するとの結論になったという(8月15日付「函毎」)。 廉売の方法は、新聞広告として公表され8月16日の「函館毎日新聞」には、次のような広告が掲載されている。 広告
1日目、日本米200俵のうち162俵を販売、外国米は、300袋(7斗入)のうち43袋(4斗入なら75俵)が販売された。外国米の評判が悪く、食味などのほか、外米を食べている、と言われたくない、という体面上のことが働いているらしい。特に薄給の月給取は、1日目の購入者のうちにほとんどいなかった。体面を気にする階層だからと思われる。官公衙の吏員に限っては、別途、月末勘定による廉売を行うこととなった。 廉売2日目は、大盛況で、高砂小学校には、販売開始の午後1時にならぬうちに黒山のように人が集まり、5時までに、昨日の残り分38俵を加えて、238俵を売り尽くしたが、5時すぎになっても黒山の人が残っていた。5時すぎにも販売はつづけていたので、238俵より、かなり多く販売したはず。外米も1日目よりかなり多く、71袋を販売した。米穀問屋組合などから販売協力で働いている人々は、手の皮が磨りむけるほどの苦労であった。 3日目も盛況、住吉小学校でも、販売開始前から門前に黒山の人が集まり、午後3時までに200俵を売り尽くし、外国米も、これまでの新記録の76袋を販売した。 4日目の幸小学校では、区内の遠い地域や、亀田村からも人が集まり、盛んに押し合い、1時は「人死(ひとじに)が出来さうな」有様となり、門を閉鎖することになった。予定の200俵は、午後3時までに売尽し、更に100俵を加えて販売したが、36俵を余すだけで、264俵を販売したことになる。外国米も85袋を売る盛況であった。廉売は、日増しに盛況で、混雑にまぎれて、女子供の切符を横取りするようなものも現れて来た。金をおとすもの、器をなくすものなどもいるのでそれぞれ注意が必要である。 第5日目は、最終日で混乱が予想されるので、286俵を用意していたが、午後4時前に売尽してしまい、更に100俵を加えて、合計386俵を売尽したが、日本米売切れの声を聞いて空しく帰ったもの50人から70人以上もいた。外国米はやや不振で82袋の販売であった。 この一連の記事は「第一回の廉賣は、試験的なりしにも拘はらず大盛況の裡に終了を告げた。之で多少とも中流以下の生活を安泰ならしめたことは争ふべからざる事実である。」と結ばれている。 |
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