通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 1 生活の「モダーン」化 俸給生活者の登場 |
俸給生活者の登場 P697−P701 このような街を背広、ネクタイ、眼鏡、ハイヒール、腕時計で歩く「スマート」「洗練され」た人々が、モダーンの表舞台の人々である。市民のうちに、かなりふえて来ていたサラリーマン、俸給生活の人々が、この雰囲気の重要な部分を担っていた。表2−168は、市内、数校の小学校における生徒保護者の職業別の分布状況である。かぎられた小学校の例ということになるが、この時期の職業別人口の適当な資料がないので、この資料によってみると、どの学校でも(従って市内のどの地域でも)商業の比率が目立って高いこと、年を追って比率を高めているのが工業や公務自由業であること、地域差による特徴もみられ、五稜郭の近くの柏野小学校が、当時の新興住宅地を通学地域としていて、公務自由業の比率が、他の小学校と比べて目立って高いものになっていること、というような点に気付く。俸給生活者層は、商業、工業などの分野にも、会社員というような表記でふくまれるものがかなりありそうなので、表2−169によって、整理したものをみると、柏野小の46パーセント(昭和15年)など、大きな比率を占めるようになってくるのを知ることができる。
モダーンな「男振り」のよいところの反面には、新聞投書のないないづくしのような面があったことにも注意しておかなければならない。ないないづくしは、次のようなものである。「高級吏員に人物ない、市会議員は気力がない、集会時刻は守らない、先生の俸給が昇らない、電燈電力値を下げない、地代家賃が安くない、道路の復興捗らない、許可なく写真は撮られない、名所五稜(郭)に夜入れない、昼のサイレン聞えない、新川まだまだ橋足りない、大きなホテルが一つもない、交通事故が絶え間ない、何年経つても火事減らない、東部に共同便所がない、雪に小便見つともない、ダンスホールは許されない、閣の女が尽きさうもない、なんぼ書いても限りない、これでは函館どもならない。」(昭和12年2月15日付「函日」) |
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