通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 1 生活の「モダーン」化 住生活 |
住生活 P687 森屋デパートは、夕方になると郊外の住宅地へ向けて帰宅する人たちのために無料のバスを走らせていた(昭和5〜7年頃、本章「デパート」の項参照)、大正10年の大火のあと、亀田川より東、五稜郭方面に新しい住宅地がつくられるようになり、平和村、文化村、緑町など私称の町名も使われている(昭和6年の町名整理で無くなる)ような郊外新興住宅地の目立つ状況があったからである。郊外住宅 P687−P688
平和村は、電車停留場開発(現在の杉並町)付近、70戸が3列に並び、それぞれ前に線樹が植えてある。中流以上の官吏、会社員、学校教員、新聞記者などが住んでいる。夫が勤めに出た留守に、若妻が井戸で水を汲んでいる様子は、文字通り平和的。夜は海のように静かだが、各戸、明るい灯のもとで団欒している。近くに医院も開業していて安心な様子である(大正10年10月28日付「函日」)。 文化村は、電車停留場女学校裏(現在の中央病院前)の近く。教会堂のような急三角形の屋根、色々のペンキに塗られた家々、35軒が並んでいる。2階建てで間取りよく、3、4間の家である。この文化村の西隣に東新村ができている。平和村と似た感じの住宅地で、120軒ある(大正12年2月16日付同前)。 これらの村々は、大正15年には、平和村120軒、緑町30軒、東新村190軒、文化村100軒と、ひとまわり大きくなっており、それぞれ代表者をきめて、特徴のある村の管理を心懸けている、と紹介されるようになっている(大正15年2月7日付「函新」)。 「中流以上」の人々の、「平和」的な、「文化」的な生活圏が形成されて来ていて、そういうところへデパートのバスもひきつけられているわけである。 ガス・電気の普及 P688−P690 「中流以下の家族の少ない人」は畳、建具付のアパート住いである(当時、函館の一戸建の貸家は畳、建具なしが普通であった)。ロンドン長屋とよばれていたアパートは、8畳、6畳、4畳半という程度の広さに押入れ付の、1間だけの貸室。2階建てで14室位あり、廊下の両端に水道のついた流しがあって共同の炊事場、というつくりである。東雲町、西川町あたりに、このようなアパートが何棟かある、このアパートにもガスがひかれていて、灯火用に用いられる程度にモダーンになって来ていた。夕刻5時半に「ガスが出ましたよ」と連絡があって、11時には、一斉に消灯になる(大正5年3月27日付「函新」)。ガスは、函館ガス営業所が、大正元年から供給をはじめていて、安全で、経済的で、便利。手間もかからず、子供、老人にも簡単に使え、御飯焚きにも適していて焦げないで炊きあがる。灯火としてつかえば、石油ランプのホヤみがきのような手間がいらないと宣伝されていて(大正元年10月7日付「函日」)、普及しはじめていたが、「中流以下」の人々には、灯火用程度の便利さなのであった。灯火用には、電灯の普及が急速にすすむようになる。明治20年代に全国的に電灯が普及しはじめるが、函館では、明治29年、火力発電による函館電灯所(東雲町)が営業をはじめる。電力供給の限度もあって、30年代で全戸(2万戸程)のうち500戸程度の利用者があるだけという状況であったが、41年、函館水電株式会社の大沼第一発電所が稼働するようになると供給電力も大幅に増えて、利用戸数も飛躍的な数となってくる(『函館むかし百話』)。大正13年の記録では、函館市役所の調査で、全戸3万3816戸のうち電灯をひいている戸数は、3万1763戸、ランプを利用している戸数約2200戸。ランプ利用者は、大森、東川、栄、東雲、松風町あたりに多いほか、各町内に1、2戸位はある、電気をおそれてランプしか使わないという老人の家庭もあるという(大正13年8月29日付「函日」)。
函館公園の桜の電飾も、市民の夜桜見物にかかせない名物となってくる。桜の電飾は、公園内の照明用に函館水電が明治43年、32燭光12個、1600燭光アーク燈1個の電灯料金を寄付したのがはじまりだったとされており(『函館むかし百話』)、年々、規模を大きくして、昭和5年の夜桜には、32燭光1700個、摺鉢山に1万燭光(500ワット投光器10台)、そのほか50燭光140か所という規模になっている(5月2日付「函新」)。昭和10年代でも、一般の家庭では、一家1燈、20燭光が標準だったから、函館公園の夜桜は、なかなか豪華な見物だったことになる。一方では、函館の夜の暗さを嘆いて、電灯料を安くして、街路や一般家庭を明るくしたいものだ、20燭を100燭くらいできたらよいのに、というような「市政偶感」が書かれる状況もあった(『日魯函館雑報』39、昭和12年7月)。 ラジオの普及 P690-P692 大正14年7月、東京から本放送の電波が送られると間もなくの頃で聴取申請の許可を得たもの33名(大正15年1月)、毎月10名位ふえるが2名位はやめるものがいる(大正15年7月30日付「函新」)。寺井電気店は、「スーパーヘトロダインの優秀機」を入手して、蓬莱町の喜楽という店の座敷を借り、新聞記者をあつめて夜8時頃(大正14年6月5日、東京からの仮放送の電波を受信)から聞き出したが、雑音が多くて、聴取に失敗。ところどころ明瞭なときもあったが、講演は全く聞き取れず、天気予報は前口上だけわかったが、あとは聞き取れない、という有様であった。十字屋運動具店も公開聴取をおこなうが、これは聴取料50銭をとる。錦輝館は、映画の合間にラジオ無料公開としているが、客がうるさくてよく聞こえない(大正14年6月「函日」)。このようなラジオ聴取のスタートであったが、昭和3年5月までには、申請許可を得たもの302名となっている。もっとも、このうち50名は、申請を取消している。経費は、毎月6、7円もかかるし、しかもよく聞こえないからだという。受信機も真空管三球のもので取付料とも15円、五球では75円もかかるものであった(昭和4年3月21日付同前)。しかし、ラジオ人気は高く、特に大相撲の実況放送のある時は、ラジオ屋の前が黒山の人だかりとなるのであった(昭和3年1月19日付「函新」)。昭和7年2月6日、函館放送局(JOVK)が開局すると、1年のうちに市内の聴取者6500、郡部で1100という規模にまで拡がった(昭和8年1月26日付「函毎」)。
市は、ラジオの時報で時刻は知りやすくなったとの理由で、正午のドン(午砲)を中止することにした(最後のドンは、昭和7年3月31日)。年額500円の経費節減にもなるということであったが、ラジオの普及は、前述の程度だったので、市民の不満は大きかった。市民が皆ラジオを持てるほどのブルジョワだと思っているのか、市長は自動車による送迎で経費をかけている、自動車をやめてドンを鳴らせ、などの声がさかんとなる有様で(昭和7年3月30日付「函新」)、翌8年1月1日から正午の時報のサイレンを鳴らすこととなった。年564円の電気料は水電会社の寄付によるものであった(昭和8年1月1日付同前)。 函館放送局の放送自動車の活動は、全国的に見ても珍しいものであった。昭和10年7月1日の第一回港まつりは、昭和9年大火後の函館の活気を示すべく企画され、花電車、花自動車、1万人の万灯行列、2万人の旗行列などのほか、飛行機や軍艦にも協力を得るという派手なかたちのものであり、これの実況放送を放送自動車でおこなったのである。トラックに機械を積み、VKのマークのついた幕をめぐらし、アナウンサーが乗りこんで、市内を走りまわって実況放送をおこなった。放送車がとまると、物めずらしさに観衆に取り囲まれるが、港まつりの雰囲気、その全貌が、全国に伝えられ、移動放送車の試みは大成功だったという(昭和10年7月2日付同前)。 |
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