通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 1 生活の「モダーン」化 交通機関 |
交通機関 P692 函館の交通事情、市民の足として市内交通の中心となっていたのは、馬車鉄道(明治30年開業)の路線をひきついで函館水電株式会社が営業をはじめた市内電車であった。電車 P692−694 大正2年の開業は、道内の市内電車として最初のものである。はじめに6月29日、東雲町〜湯川間の湯川線が開通、次いで10月31日、市内線(弁天−十字街−区役所前−停車場前−若松橋。十字街−東照宮−谷地頭。十字街−新蔵前−東雲町−停車場。)が開通している。湯川では、電車が着くごとに花火をあげるとか、市内線の沿線でも電車が通過するごとに万歳の声があがるというお祝いのムードで、「馬がなくてどうして走るんだネ」という人もいるほどに新しいものに触れて電車のカネの響きが「人一倍函館の男振りを上げる」というように感じられてもいた(大正2年6月29日、11月1日付「函毎」)。電車の乗客数の推移が知られる資料が若干あり、表2−166のとおりであるが、乗客数は年々増加して、全市の人口の3分の1ほどが、毎日、電車を利用している状況(前出『函館市誌』)であると言われるようになる。車両の増加の状況、ボギー車の導入の状況も表2−167にあるとおり、次第に充実させられていて、大正8年からは特等車(鉄道列車の1、2等客車のつくりだったという)の運行もおこなわれるようになるが(大正8年12月2日付「函新」)、この特等車は、はなはだ評判が悪かった。
東部、郊外の発展と電車利用の相関関係も重要であった。新興住宅地の平和村、文化村などの人口増、商業学校の五稜郭通りへの移転(大正10年大火後、元町より)、大谷女学校の千代ヶ岱への移転(同、曙町より)は、通勤、通学者の増大で、電車利用者が急増することになったが、湯川線の沿線であるが故に、住宅地や学校の立地に有利でもあったのである(大正13年2月1日付同前)。 電車賃は、昭和初年の市内線で、全線片道4銭、往復7銭の均一料金制がとられていて、「その低廉なことは全国でも有名で、九州の福岡市に次ぎ第二位である」(前出『函館市誌』)と紹介されてもいるが、この頃、女学生だった人の回想で、新川町から遺愛女学校への通学であったが、往復7銭、通学定期月額1円50銭は、「高いという気がしました」と書かれている例もある(『函館・都市の記憶』)。利便性の高い、都会的機能の利用にあたっては、利用者に、高負担感を与えることも多かったと思われるのである。 市内電車が運行される直前、大正元年の市内の車両の存在状況を示す数値は、次のようなものである。乗用馬車4、荷積用馬車694、人力車260、自転車211、ほかに馬鉄車両33(大正2年6月24日付「函新」と大正元年8月14日付「函日」)。 これが昭和5年になると、自動車200、車輌(オートバイなどか)30、乗合自動車4、自家用自動車数十台、自転車8400、市内電車車両61、ほかに消防自動車、蒸汽ポンプなど23台(このうち最新式のアーレンスフォックス消防自動車3台は、東京にも1台しかないという特別のもの…昭和2年7月22日付「函新」)という状態になっている(昭和5年6月15日付同前)。人力車、馬鉄から自動車、自転車、電車の時代にかわったのである。 自動車・自転車 P694−P696 函館の法学士、警部補、道庁技師、新聞記者などのハイカラ紳士たちは、大正3年には、自動車の初乗りをおこなっている。博品館の発起で、電車が走るまちに自動車が1台もないとは!と、ドイツ製12人乗(8500円のもの)の自動車で、市街地4マイル程(6.4キロメートル程)を18分間で一巡し、「車中の面々、ふんぞりかえって得意」の試乗であった(大正3年2月22日付同前)。大正9年頃の賃貸用22、乗合用1、貨物用7、自家用2という自動車数は、道内随一であった。全道でも70台、札幌で、自家用1、貨物用1、というような状態の頃のこと(大正9年1月25日付「函日」)で、モダーンぶりは、こんなところにもあらわれていた。昭和3年には 「自動車屋」が40軒(78台)もできて、新川橋までの市内なら1円均一となった。4、5年前ならちょっと乗っても2、3円はとられたものだったが、今では、5人で乗れば20銭ずつでよいことになった。湯の川まで乗っても2円50銭〜3円位となった(昭和3年1月8日付同前)。いわゆる円タクの時代となっているのである。自転車は、明治20年代から乗っている人がいた。イギリス人宣教師(アイヌ学校長)のネトルシップ、ただひとり颯爽とのりまわしていたのだという。それを見て、当時、開業医で往診などに忙しかった斎藤与一郎(昭和13〜17年、函館市長)が、自転車の利用をはじめたのが明治33年頃。まだ若年だった3代渡辺熊四郎も、同じ頃、アメリカの優秀車をとりよせて練習をはじめたが、祖父(初代熊四郎)に見つかって、「商人のぜいたくはいけない」と大いに叱かられ、かの優秀車は、与一郎にあげてしまったという話が伝えられている(『斎藤輿一郎傳』)。 その自転車も昭和5年には、8000台余(前述)、同11年には1万3000台余(昭和11年5月5日付「函新」)にもなり、店員などが履物のように乗りまわす。3代熊四郎は「さすがのお爺さんも、あれだけは、先見の明がなかった」と笑っていたという(『斎藤輿一郎傳』)。
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