通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

1 市民生活の変容とその背景

1 生活の「モダーン」化

食生活

住生活

交通機関

シンボル「銀座通り」

俸給生活者の登場

食生活   P683

 大正から昭和初期、函館は、人口増加の最も目立った時期であった。大正11(1922)年には市制も施行されて、都市別人口規模で、全国の第9位〜10位の大都市となって来ていた函館の都会らしさは、本格的なものとなった。
 都会らしさのあらわれは、市民生活の「モダーン」化にも見られた。生活の諸側面に、この頃の新しさが目立つようになって来たのである。
 大正初期の新聞コラム「是からの流行」(大正4年4月19日付「函毎」)がとりあげているのは、次のようなものであった。清涼飲料水のサイダー、ラムネが季節商品として売れる、洋物屋の洋傘(こうもり)と日傘、「ホワイトに少しばかり黄を交ぜたもの」「白に薄水色の入つたもの」が好まれ、値段としては余り高価でない2円代のものの売れ行きが良い。洋服屋では、学校の制服の注文は一段落、春秋用、間着(あいぎ)の紳士服が忙しくなってくる、紺セルに加えて、「白みがかつた荒い縞物」や「無地で小サツパリした鼠地か、藍の極く薄もの」が流行、15、6円から22、3円のものの注文が多い。ミルクホールが東浜町に開店したが、これから「一品洋食」や「カフエーライオンといつたやうなもの」が、客を集めるようになり「白いエプロンを掛けたカフエーの女等の世界」がこれから流行することになろう。
 大正初期の流行の見通しは、洋風のものがとりあげられて、この頃の街の雰囲気を伝えているのである。

カフェー   P684−P685

 これからの「世界」であるとされていたカフェーは、街の「モダーン風景」の代表格となり、その風情は、「カフェー繁昌記」、「驚きのカフェー時代」というような見出しの新聞記事にも紹介されるようになる。大正13年、大門通りや銀座街などに大小のカフェー50軒余、女給270人〜280人が、酒と煙草のうずまくテーブルからテーブルへ飛び歩いて「媚を湛え乍ら」収入を得ると紹介されている(6月15日付「函新」)が、昭和6年には、警察署調べでカフェー99軒・女給346人、バー90軒・女給99人、レストランバー68軒・女給104人、レストラン21軒・女給169人、合計278軒・女給718人とされている(4月19日付「函日」)。銀座街では、空屋は次々と「赤い灯、青い灯が飾られて」行き、末広町、東雲町、大門通り、蓬莱町に派手な店が目立っている。貸座敷屋もカフェーに模様替えして「花魁衆が女給にでる」ようになって来て、花柳界、芸者衆は淋しいありさまとなってきている(同前)といわれるようになる。警察署調べなので前記の程度の軒数で記されるが、税金の関係で無届けで営業するものも多いとのことで(『函館市誌』昭和10年刊、第23章第4節)、『近代函館』(昭和9年1月刊)の紹介では、「銀座カフエー街、…そこには大小約百に近いカフエーバーが互に鏑を削つていとも酣なるカフェ戦を展開し、二千人に近い女給が各々その牙城によつて街頭に戦つている」と、銀座カフェー街の「繁昌」を伝えるのである。このカフェー繁昌の背景にあるものは、「機械文明高度の発達」であるとして『近代函館』は次のように説いている。機械文明の発達で「人間の業務」は、非常に「分業的」となった。それは、人間の神経に堪え難いほどに「単調」なことの繰り返しであり、そのなかで「能率増進を強要される」。一方、生活程度は高まりつつあり多額の生活費を必要とする。これらの度合は、都会ほど甚だしいものがあり、この「単調と疲労と不安」のなかで、人々は、映画に、音楽に、そしてカフェーにひかれるのである。

カフェー「銀座華壇」(『近代函館』)

カフェー「美人茶屋」(『近代函館』)

カフェー「ムサシノ」(『近代函館』)

カフェー「紅蝙蝠」(『近代函館』)

洋食店   P685−P686


ライオン(『近代函館』)
 洋食店も「激増」して来た。よく知られる「重なもの」は、中央部の五島軒、同支店、末広町ライオン、八幡坂上の函館ホテル食堂など、全部では50余軒ある(大正11年2月6日付「函日」)。この洋食店「激増」でコックの品性や技術を磨くため、また、各営業者へコックの斡旋とか補充のため「函館コックボーイ共益会」という組織もできるようになっている(大正11年1月9日付同前)。函館の名産、名物を新聞読者の投票で選ぶという企画のなかで、料理の部では「ホメローのランチ」(ホメローは、市役所前の洋食店)が選ばれるというようにもなっていた(大正12年8月18日付「函毎」)。
 洋食店の繁昌は、必ずしも庶民的なものではなかった。「ライオン定食」は、昼食、5品の料理とパン・コーヒーで1円60銭、夕食は6品とパン・コーヒーで1円90銭だったという。そば4銭、駅弁並20銭、同上等40銭という頃のことであるから(大正10年11月24日付「函新」)、「ライオン定食」の高級感は、かなりのものだったことがわかる。『近代函館』の紹介する「洋風レストラント」ライオンは、次のような一流店である。20年以上の歴史を持つ店。店主はその道に造詣の深い研鑽の人。店舗は、街の中心にありながらも喧騒からはなれ瀟洒な落付きのある構えで、華美よりも充実した内容を目指す経営である。ロシア料理には、特に店主のプライドをきざみこみ独特の冴をみせているの評がある。在留外国人の顧客も多く、ジャズ抜きの上品なウェートレス接待で会社員の会談に使われるなど上流顧客を擁し、高級堅実な店としての信用を保っている。

五島軒(『近代函館』)
 五島軒も「函館最上級のホテルレストラン」で居留外国人、官吏、紳商を定客として、上流の歓送迎会、結婚披露宴などに使用されているという。堤家・太刀川家の「盛大な披露宴」も五島軒でおこなわれ、その豪華な献立は新聞記事にもなっている。伊勢海老、コンソメ、オーウーフ、カイユ(スープ)、鯛魚白葡萄酒煮、牛繊肉雁肝添え、西瓜ポンチ、洋ウド、七面鳥蒸焼、シャントリ(クリーム)、小菓子、水菓子、コーヒー…豪家のモダーン振りの一端である(昭和5年4月26日付「函日」)。

食堂   P686−P687

 マダム、女学生、サラリーマンのお主婦(かみ)さん、商人、女中、女給、不良少年、デパート拝観のモダーントッツアン、ルンペン…あらゆる人々のあつまるデパート…そこは「都会モダニズムの母胎」であるという(『近代函館』)。森屋デパートには、毎日2500人ほど、土曜、日曜には3300人ほどの来客があり、その30パーセントほどは食堂を利用するという。その食堂の風景は、高級な洋食店とは異なるが、それなりのモダーンさがみられるのであった。角巻のお内儀さんたちが子ども連れで、おすしや、おしるこ、そばなどを食べているそばで「モダーンな若い連中」は「アソーテッド・ナット」(くるみやピーナッツなどの盛合せ)の皿を前に「ジンジャーの赤い液」をすすっている。40パーセントは、洋食を食べる人たちだという(昭和6年2月4日付「函新」)。ホットオレンジでも本当のオレンジ果汁のものが好まれる。すし、親子丼、茶碗蒸しなど和食ものの方が多めであるが、ライスもの、サンドウィッチ類も目立つし、間食の甘いもののなかでは、おしるこが減少気味で、プディングやフルーツポンチへ好みを移している若い女性も珍しくなくなって来た(昭和8年2月1日付「函日」)。にぎりずし40〜50銭、天丼30銭、カレーライスやハヤシライス20銭、ランチ(料理3品)50銭、アイスクリーム15銭、コーヒー10銭というのが、この頃の庶民的な外食の値段であった(昭和2〜6年の「函日」)。
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