通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

2 昭和初期の教育

2 中等学校

中学校教育の全国的動向

市内中等学校の教育状況

庁立函館工業学校の位置変更

庁立函館商業補習学校の廃止

教化総動員運動の展開

青年学校の発足

青年学校の発足   P681−P682

 昭和9年1月の文政審議会の答申を得て、同10年4月1日、青年学校令(勅令第70号)が公布された。実業補習学校と青年訓練所を統合し青年学校を発足させるものであった。青年学校令によれば、「青年学校ハ男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的トス」るもので、設置者としては「北海道府県、市町村、市町村学校組合、及町村制ヲ施行セザル地域ニ於ケル町村又ハ町村学校組合ニ準ズベキ公共団体」とされ、「商工会議所、農会其ノ他コレニ準ズベキ公共団体」「私人」なども設置者とされている。また青年学校には「普通科及本科ヲ置ク」こととされ、「普通科ノ教授及訓練期間ハ二年」「本科ノ教授及訓練期間ハ男子ニ在リテハ五年女子ニ在リハ三年」とされている。普通科に「入学スルコトヲ得ル者ハ尋常小学校卒業者又ハコレニ準ズル素養アル者」とれ、本科に「入学スルコトヲ得ル者ハ普通科終了者高等小学校卒業者又ハ之ニ相当スル素養アルモノ」とされている。その他、「研究科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ本科卒業者又ハ之ニ相当スル素養アル者」となっていた。
 このように発足をみた青年学校には、それまでの青年訓練所の在籍者の編入が行われ、男子青年の場合は、小学校卒業から軍隊への入営まで全期間在籍することになった。青年学校の教育は、勅令の規定にみるとおり「教育」ではなく「訓練」であった。訓練とは、太平洋戦争中に流行する「鍛練」と同じであり、「鍛練」は「焼きを入れる」ことで、「骨身に焼きを入れて反射神経を創りだす『矯正』なのである」といわれている(鷹野良宏『青年学校史』)。青年学校の目的は端的にいって軍事教練の強化であった。しかも青年学校の発足後は、青年訓練所時代の「教練査閲」が「教練等査閲」となり、教練はもちろんのこと、教育活動全体を調査するものとなった。
 函館における青年学校は、昭和11年には7校が設置され、14年に市立13校、私立4校に増加し、16年には市立は14校で増加していないが、私立は8校となり、市立に迫る学校数を示していた。なお函館市の『事務報告書』は、14年以降「生徒数ハ防諜関係ニ依リ記載ヲ略ス」と注を付して、統計表の生徒数の欄を空白のままにしている。青年学校の軍事との結合を示す事実といえる。
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