通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

1 市民生活の変容とその背景

2 函館の百貨店

百貨店事情

百貨店を利用する「突端人種」

百貨店のサービス競争

百貨店事情   P701

 人口規模の点でも、市街形成の様子からも、函館に、本格的な百貨店が登場する時期が来ていた。明治期の末には、「東京三越」の出張開店がみられ、呉服、太物類ばかりでなく「最新形の時計と指輪、洋傘、夏向ショール」などを広告にかかげる百貨店商法は、すでに珍しいものではなくなっていた。その広告(明治45年5月6日付「函日」)には、「例年の通り御得意様方の御便利を図りたく、前記の通り出張」とあるので、このころ、このような東京からの出張開店は繰返されていたものと思われるのである。大正期には、函館の流行は、東京から直接にはいってくるので、仙台や新潟、山形、秋田などより1年から1年半も早い、東京の三越や白木屋が臨時の出張所を北海道や東北地方の各地に設けるが、函館人は、これを待ちかまえている、函館の大型店は影響をうけざるを得ない、といわれるようになる(大正4年6月10日付「函新」)。こうして、大正期から昭和初年にかけて「近代都市に聳える時代相」=「ビルディングとデパートメントストア」を代表するが「拡張争覇戦」を展開する様子となる。「市勢中の時代相の中心として」この様子を特集した新聞は(昭和5年6月15日付「函新」)、各店の歴史にも触れて、詳しい記事を載せている。これらによって当時の百貨店事情をみると次のとおりである。

森屋百貨店   P701-P704


森屋百貨店の外観
 創業は明治2年。初代の渡辺熊四郎が、大町に洋物店を開いたもの。明治8年、内澗町(のち末広町)に移り、大正13年の火災で金森時計店、金森魁文舎、金森洋服店、金森回生堂が罹災したので再建の折りに、洋物、洋服、時計の各店を合併し百貨店組織として、そのすぐ後に食料品部も併せている。大正14年12月、「四階楼」に時計台を配する店舗に移転(昭和元年8月1日渡辺合名から渡辺商事(株)が分離し、百貨店関係を担当するようになっている)、更に、昭和5年には、総6階建、一部7階建、時計台の塔屋の頂点まで地上145尺(約44メートル)、総建坪1910坪という大店舗で「超金森」を現出(昭和5年10月2日、新増築開店)、各階の売場のほか、催物場、大食堂(収容400人)、喫茶室、理髪室、美容室、写真撮影室、屋上庭園を設ける。客用エレベーター2基、ほかに貨物用1基も備えるという「超モダーン式」の店舗であった。ここで、藤間社中の日本舞踊の会、横山大観ら東西大家の作品を集めた日本画展、小学生の書画展、陸軍・海軍関係の展覧会など様々な催しが、また織物の実演販売、「十銭均一販売」が企画され、多くの市民を集め「市民に貢献している」とも評されていた。正月の■森屋百貨店の大売出しには、2、3、4日の3日の間、毎日6万人ほどの入店客があった(昭和6年1月5日付「函新」)と伝えられる程の賑いをみせたのであった。この頃の新聞が「超○○」を連発して表現する百貨店情況があらわれている。

丸井呉服店   P702-P703


今井百貨店の屋上遊園地(『今井 沿革と事業の全貌』)
 明治5年、札幌に開店した同店は、滝川、室蘭、旭川、小樽に支店網を拡げ、明治25年、函館にも支店を開設した。札幌の本店は、大正6年、すでに百貨店としての営業をはじめており、函館支店も大正12年には、末広町に3階建の店舗、玄関に大理石柱を据える構えで百貨店の形となった。昭和5年には、この店舗を4階建に増築、隣接して5階建を新築して総建坪1600坪、屋上の塔の先端まで地上92尺5寸(28メートル余)、「近世復興式」の建築様式の「一大高楼」なる大店舗で営業をはじめた(昭和5年11月2日、新増築開店)。各階の売場の通路は7尺(2メートル余)と広くとり、催物ホール、美容室、髪結室、散髪室をそろえ、地下の食料品部の拡張のほか、電機部、写真部を新設、屋上のガラス張りサンルームには、鳥や動物、草花を配した「遊園」がある。エレベーターは客用2基、貨物用1基を備えるという「百貨の販売店としての面目を具備した」ものであった(この建物は、現在も函館市役所末広町分庁舎として使用されている)。やはり、各種の催し物などで人を集め、昭和6年正月の「善光寺展」には、開催期間の18日間に20万人余の入場者があった(昭和6年2月4日付「函新」)という。金森百貨店とならんで、都会的な、はなやかな賑いのスポットとなっていた。

荻野呉服店   P703-P704


荻野呉服店の外観(昭和11年6月3日付「函新」)

 創業は明治22年。地蔵町(現在の豊川町のうち)。呉服、太物の正価廉売で販路を広げる。大正12年頃、雑貨部を新設して和洋小間物、化粧品、玩具、貴金属類までを扱う百貨店形式をとり、同15年、隣接地に新館を建て、雑貨部を一層拡大して百貨店の実質を高めて来た。昭和6年には全館を解体、4階建、総建坪5百数十坪の新店舗を建てて、両店からややはなれた地蔵町という立地で、大いに注目されることとなった(新築開店は、昭和6年10月2日)。各階の売場のほか、食堂、休憩室、催物場はシャンデリアの壮麗な大ホール、エレベーターも備えて、百貨店の店容を本格的に整えた。和洋品、履物、酒、缶詰、銘茶、各種食料品などを豊富に品揃え、良品を廉価で売る老舗の商法をよく伝える雰囲気であったという。一方では、日活キネマの人気女優、入江たか子、山田五十鈴ら自選の流行デザインの衣装を、それぞれの似顔人形に着せ、人形の髪も市内一流の結髪師に結わせるという派手な演出の展示や、華麗な京呉服の新作陳列会というような行事でも、とならんでの話題性をつくって行く百貨店となったのである。

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