通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 2 函館の百貨店 百貨店のサービス競争 |
百貨店のサービス競争 P705−P709 マダムからルンペンまでを集客する百貨店は、専用のバスを運行するようになる。萩野呉服店が「専属自動車」で「最低料金」のサービスを行う広告が、大正15年12月の広告にみられるが、森屋は、昭和5年8月、「森屋の赤バス」の「無料」の運行をはじめた。森屋から大門、函館駅、谷地頭、それぞれの区間を3〜5往復(所要時間は、それぞれ片道10分程)して、夕方の1便だけ緑町行であった(昭和5年8月18日付「函新」)。緑町とは、現在の本町、電車通り中央病院前電停の東側あたりの私称の町名、大正10年の大火の後、この方面に住宅がふえ文化村、緑町、桜ヵ丘、八千代町というような町名が任意に用いられていた時期があったが(昭和5年6月15日付「函新」)、この新興住宅地域への帰宅の便を考えたサービスであった。16人乗だが30人位までは乗れるという新型フォード車は、全体を赤で塗装、黄色の帯線を配した派手に目立つように仕立てられ、「お伽噺の国へでも運んでくれそうなきれいなくるまです」(昭和5年8月15日付同前)と紹介されるものだった。東京、大阪では、百貨店の専用自動車によるサービスは、この頃より以前に始っていたといわれるが、このようなサービス競争が函館にまで及んできたわけである。さらに、「駅前へ白木屋、大門前へ三越/二大百貨店開設の噂」(昭和6年3月6日付「函日」)というような中央からの大資本の函館進出も噂される状況もあった。そのなかでとの合併がおこなわれ、棒二森屋(森屋)が、昭和11年6月発足となる。萩野呉服店は、棒二森屋地蔵町店、森屋百貨店は棒二森屋末広町店とされたが、更に高砂町(函館駅前)に5階建、総建坪1500坪の大店舗が新築され、これが本店となった(昭和12年11月開店)。 装飾に工夫をこらした大店舗、豊富な品ぞろえの廉価販売、目を惹きつける各種の催し物(表2−172参照)、連日新聞を賑わしている広告(時々、1頁全面を一百貨店の広告が占める)、しばしば行われる夜間営業(夜9時まで、3〜4日間程度、土・日曜日や祝祭日をはさんでおこなわれる)、専用バスによる無料送迎…百貨店の活発な活動は、小売店経営者に大きな影響を与えたはずである。
小売店側は、百貨店の「牙城の虚」をつくことに努力している。ひとつひとつの商品に百貨店では行き届かないほどの考慮を払い、顧客個人への配慮も専門的に充分に「萬全を期する」、というような点であった。必需品などを扱う「ネヴァーリング・ストアつまり近隣店」とか専門店が活動する余地は残っている、とみられていた。 全国的には、百貨店協会が、小売業者との摩擦を緩和するべく「自制案」を協定して、定休日の設定などの申し合せ、実施に移すようになって来ていた。函館では、東京、大阪方面のような深刻な問題があるわけではない、との見方もあって、百貨店の「自制」的動きは大きなものとはならなかった。 しかし、今井呉服店は定休日制をとりいれ(森屋百貨店との話し合いで、まとまらなくても実施するつもりという)、森屋百貨店では、部内での交替休暇制以上のことは考えないが、「赤バス」は中止することになろう、というような動きはみられることとなる(昭和7年10月2日付「函新」)。 昭和初年までの函館の都会的な膨張は、定住人口の継続的な増大のほか、北洋漁業の基地であり、北海道への入口であることによる流動人口にささえられ、その購買力が、百貨店・小売店の摩擦をやや目立たなくしていたようである。 |
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