通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 3 市民の娯楽−劇場・映画館− 座から館へ |
座から館へ P709−P712 市民の娯楽の場としての各種の興業の場は、江戸時代の中頃から山之上町あたりの芝居小屋というかたちで、すでに登場していたという(『函館市誌』函館日日新聞社、昭和10年12月)。万延元年の「官許/箱館全図」をみてみると、実行寺の裏手、七面坂の登り口、右手に「定芝居床」という記入がある。
明治の終りごろになると映画の常設館ができる。東京でも常設館は、明治36年10月浅草の電気館が最初であった(『近代日本総合年表』岩波書店 1968年)というから、明治42年1月に、映画常設館として営業をはじめた錦輝館(『続函館市史資料集第2号 市史年表草稿』市史編さん事務局、昭和47年3月。表2−173では錦輝館は寄席となっているが)は、大変新しく珍らしい興業の場だったのである。場所は蓬莱町、現在の宝来町電停付近、銀座通りの一角を占め、当時の繁華街、歓楽街の只中という感じの位置である(『函館・都市の記憶』所載の地図による)。明治40年の大火では、かなりの劇場、寄席も被災しており、それぞれ再建されるが(表2−173参照)、その間に新しい興業もの、映画が登場する機会ができたようにみえる。 大正10年4月にも大火があって(2100戸以上焼失)出火地点が新蔵前だったこともあって繁華街は、松風町方面へ移ったようだったが、映画館も大幅に数を増して松風町あたりに位置するものが目立った(表2−173参照)。映画館の規模も大きくなって、大量の観客を収容するようになる。大正4年7月に開設された音羽館(音羽町)は、1400人も収容する規模、翌5年改築された錦輝館は3階建、大正10年類焼後の再建では2100人収容にまでなった(『函館大正史郷土新聞資料集』元木省吾 昭和43年8月)。 この頃の興行には、東京歌舞伎の大名題、片岡市蔵らの巴座公演(大正9年7月)のような大きな催しのほか、浪曲、落語、漫才、新派演劇など様々なものがあったが、観客動員の中心は、映画に移って来ていた。大正7年の興業の状況は、歌舞伎7回、新派38回、相撲2回、手品2回、浪花節115回、義太夫62回、落語58回、活動写真338回(2289日)、掛小屋212回だったという(前出『資料集』)。大正9年7月中の興業関係新聞広告(○○新聞朝刊)の様子で見ても(渡辺道子氏の広告調査資料による)、総件数63、「実演喜劇」、「実演新派」、「魔術」、「浪曲」などの実演関係のもの12件で、あとは、すべて映画の広告であった。そのうちアメリカ映画など洋画の広告が38件もあって、アメリカ映画は見あきてしまったという雰囲気も出て来たという、市民があきるほどに映画館に通ったということであろうか(前出『資料集』)。映画の観客動員数については、表2−174のような数値が知られる、市民1人が1年に10回は映画を見る計算になるというようなことも示されている。
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