通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

1 市民生活の変容とその背景

3 市民の娯楽−劇場・映画館−

座から館へ

トーキー時代へ

繁華街の要因

繁華街の要因   P714−P716

 こうして映画館のまわりが繁華街となる。昭和5年頃、すでに十字街、新蔵前は昔のこと。萬歳館前通りの22間幅のコンクリート道路は、人道、車道の区別もなく、商人が左右に店を張り、夜は不夜城を現出し、娯楽場、遊戯場、料理店、カフェー、バーの賑かさで、函館の「浅草」の称が生まれているほどである(昭和5年6月15日付「函新」)。
 映画館の「ハネた頃」(上映終了時刻)は大混雑、下足札、はき物のやりとりで、頭上に泥がまきちらされ、押しあいで島田がつぶれる、子供が泣きさけぶ−午後10時すぎは「危険なタイム」になる。映画帰りの男に目をつけて白粉と紅の「夜の烏」が泳いでいる。警察官がそれを追いかけている。七つ位の少女が「草津よいとこ一度はおいで…」と唄っている、黒山の人がとりまいているが、1銭玉を投げてやるものはほとんどいない。三味線をかかえた「門づけ」稼業の女が2人3人裏小路へはいって行く…(「大函館の24時間」『函毎』昭和6年4月の連載)。
 映画館のまわりで座布団を1枚もってポツネンと立つ女給もなかなか大変、1枚5銭で貸して、そのうち1銭だけが自分の収入になる、大抵100枚位をあずかっていて、土曜日、日曜日だと7〜80枚の売り上げがあるらしい。これで家族を養っている人もいるのだという。繁華街の様々な側面である(同前の連載記事)。
 映画以外の興業でも岡田嘉子一座来る(巴座、昭和4年6月)、水谷八重子一座、椿姫、娘道成寺、大尉の娘を上演(函館劇場、昭和9年8月)、柳谷金悟楼来演(函館劇場、昭和10年8月)、東京大歌舞伎 松本高麗之助らの公演(巴座、昭和11年6月)など大人気のものもいろいろあった。「角力が終ると巴座で猿之助一座の盆芝居……久々の大芝居、まずは大入とは芽出度し芽出度し。」、「銀映座で音丸一行の出演…松竹座で田中絹代の実演があって街のミーチャン、ハーチャンを喜ばせた」(前出『日魯雑報』昭和12年7月号、9月号)という様子であった。
 しかし、大体年に一度位は来函していた東京大歌舞伎は、人気下り坂とされていた、「戦時ではあるが商売は商売、銃後慰安の興行の為め」と羽左衛門、友右衛門、仁左衛門、三津五郎、権十郎らが顔をそろえての大芝居が函館劇場で開幕したが(昭和13年8月)噂でもちきりとも行かず、大衆が歌舞伎からはなれるテンポの早さが巷間の口の端にも明らかである、とみられて来た(前出『日魯雑報』)。
 映画の様子も変わってくる。題名に恋や愛はなくなり、恋女房は、晴小袖、愛の倫理は、新しき情熱に、という具合となった。非常時型だといわれた(前出『資料集』)。

戦時色が濃い映画の広告(昭和15年1月3日付け「函新」)
 昭和14年7月の興業関係新聞広告の整理(渡辺道子氏による)でも広告の件数93のうちに、「強国日本」、「独逸の防空戦線」、「露営の歌」、「千人針」(日本初の総天然色映画とのこと)、「上海陸戦隊」など戦争ものらしい題名のものが20本ほども出てくるようになっている。
 昭和7年7月で同じように新聞広告を調べた例(同前)では、それらしい題目のものは、54の広告件数のうち「陸軍行進曲」、「戦争と少女」の2本しかみられなかったのだから、いわゆる非常時の頃、大衆娯楽の王者、映画の質は大きく変って来たのである。
 大衆演芸の世界の時局協力的方向は、あらゆる分野でまぬかれなかったが、歌舞伎の地方公演が「銃後慰問」と冠するようになり、映画も戦意高揚型へとすすむことになって行く。
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