通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 1 市民生活の変容とその背景 3 市民の娯楽−劇場・映画館− 繁華街の要因 |
トーキー時代へ P711−P714
やはり映画説明の弁士が大活躍の時代が、昭和初年まではつづいたのである。 萬歳館の弁士、宇野楽天月給250円、石井春波の月給350円などと伝えられ、なかなかの人気の存在であった。昭和元年、漁夫の月給30円〜50円、日雇人夫の日給1円〜2円(『函館市史』統計史料編)という頃のことである。 ちなみに、ここに出てくる石井春波弁士、前出の広告に、錦座の「熱球全六巻」の説明を担当すると出ている。 それだけに、弁士の研修が云々される時代にもなっていた。映画の影響力の大きさが考えられ、特に風俗取締的な意味も意識されていたようである。映画館の男女席は別々に設ける、夫婦は一緒でもよいが、客と芸者などというのは認められない、紅白の縄を張って厳重に区分せよ、ということになる(大正8年2月から)。もっとも、男子席、女子席、家庭席をきちんと区分して設けるという規則を守る映画館は、ほとんどなかったので、警察が注意をくりかえすという有様だったらしい。それと似たような様子が「活動写真説明者試験」でもあらわれていた。興業取締法の改正で、弁士は、常識試験をうけて鑑札を受領しないと資格がないことになったので、その試験がおこなわれたが、その成績は、甚だよくない、英国前首相ロイドジョージを地名としたり、草の名としたり、リンカーンを蒸気機関の発明者にしたり、鎌倉は東京にあるとしたり、壇の浦は殆んど知っているものがいない、とか。声色などは省いて、説明を中心に、しかも説明三分、あとの七分は、観客の映画鑑賞にまかせるのがよい、というような研究もされていたようであるが、弁士の資質のほどは、かなり心配なもののようであった(前出『資料集』)。 昭和期に入ると、トーキーが拡まりますます映画の人気は高まってくる。劇場、映画館の開設状況は、表2−175のようになっている。昭和9年3月の大火で、殆んどが被災しているが、数年もしないうちに、より以上に映画館が開設されるのである。観客動員の様子も表2−174(→座から館へ)のとおりで、年間300万人以上というような数値もみられるのである。
昭和10年代に入ると各映画館もナイトショーという催しをはじめている。一般の上映の終った午後9時半頃から映画1本とニュース1本で1時間半ほど、入場料は10銭という安さで、夏の夜は、観客が黒山のように押しかける、人に押されて知らないうちに無料で入場してしまうもの、ガラスにぶつかって怪我をする人も出る有様とか(『日魯 函館雑報』昭和102年9月号)。 |
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