通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

6 函館とロシア・ソ連漁業

ロシア人漁業者と函館の結びつき

デンビー商会の盛衰

リューリ(兄弟)商会の実態

カムチャツカ株式会社

カムチャツカ株式会社   P629−P632

 ソ連の漁業、および漁業経済を支配する統一機関はソユーズ・ルイバ(昭和5年創立)であり、さらに極東にはヴォストーク・ルイバが創立され、その下に各種トラストや、国営漁業会社などが加盟している。ここに至るまでには若干の変遷があって、そもそもソ連政府は大正13年に国営会社オホーツク・カムチャツカ株式会社(オカロ)を組織し、極東漁業の開発に着手したのであった。
表2−134 函館におかれたソ連の国営漁業・経済機関
名称
設置年
業務内容
備考
ツェントロ・ソユーズ
 [全露中央消費組合]
ダリゴストルグ
 [国営貿易局極東支部]
トルグプレードストヴォ
 [ソ連通商代表部]
ソフ・トルグフロート
 [ソヴイエト国営商船隊]
ダリモレプロドクト
 [極東水産株式会社]
オ・カ・ロ
 [オホーツク・カムチャツカ漁業(株)]
ダリゴスルイボトラスト
 [極東国営漁業トラスト]
ア・コ
 [カムチャツカ株式会社]
大正12

大正14

大正15

大正14

大正13?

大正13?

大正15

昭和2

外国貿易

極東貿易

通商全般

海運

漁業

漁業

漁業

漁業

大正15閉鎖

大正15通商代表部に合併

昭和10閉鎖

昭和8までに撤退か

大正14オカロに吸収

極東国営漁業トラストへ

業務の一端をアコヘ

昭和8までに撤退か
『日露年鑑』、「函館新聞」、「函館毎日新聞」などより作成
 これを吸収して、昭和元年に極東国営漁業トラストができたが、さらに翌年にこの一部が分かれて、国家資本により創立されたのがカムチャツカ株式会社、通称「アコ」と呼ばれるものである。同年函館にも支店が設けられ、A・N・カロリョフが初代の代表者になった。彼は旧海軍少佐で函館に亡命していたが、アコに就職するために一時ソ連国籍を取ったものと思われる。アコは東西カムチャツカとオホーツクを中心に、漁業と一般産業開発を目的に設立されたものであった。なおアコの他、函館に置かれたソ連の漁業(個人漁業家は除く)・経済機関は表2−134のとおりである。
 ソ連政府は極東漁業にも10か年計画を樹て、将来は日本を駆逐することを志向したが、皮肉にも当面は先進国日本に依存せざるを得なかったのである。つまり漁業用品の買い付け、日本人漁夫の雇用、傭船、生産物の販売が函館を中心に行われたのである(ただし輸出入業務は通商代表部が代行した)。
 昭和3年、アコは鮭鱒鰊漁区21か所と蟹漁区2か所を経営、それにソ連初の蟹工船2隻のうち1隻を操業させた。この蟹工船2隻には函館から熟練漁夫を乗せ、漁網もおよそ3万7000反が積み込まれた。アコの各漁場には函館から1762人の漁夫が雇用された(昭和4年版『日露年鑑』)。因にこの年にソ連側に雇用された日本人は総数4388人(同昭和8年版)、通商代表部函館支部が函館市内で漁業用に費やした金額は630万円であった(昭和4年2月26日「函新」)。またこの年ソ連国営機関の漁獲物のうち、生魚は一手に日魯漁業が買い付け契約を結び、アコとは鮭50万尾、紅鮭15万尾の契約が成立した(昭和3年3月27日「函新」)。以降も日魯をはじめ、日本の企業がソ連漁場からの生産物を買い付けたが、函館税関管内の輸入額は表2−135のとおりである。大部分は函館港に荷揚げされるが、時には小樽にも運ばれた。

在函館ソ連機関の出した広告(昭和4年1月1日付「函新」)
 このような函館とソ連漁業との関係は昭和5年がピークであった。対ソ連貿易もこの年の函館税関の輸出入合計は、他税関を圧倒して第一を占めた(昭和6年版『日露年鑑』)。またソ連側に雇用された漁夫数も9545人と最高を示した(同昭和8年版)。市内の業者では、函館製網船具の対ソ連漁網輸出は250万円で、この年上半期の売り上げは会社創立以来の最高記録(函館製網船具株式会社「第拾七回営業報告書」)となった。また、日本製缶会社では昭和5年用のソ連蟹工船用空缶として、75万箱を受注した(昭和4年10月19日「函日」)。その他、傭船や造船業界も盛況だったようである。函館税関管内からソ連漁場に輸出された品目と金額は表2−136であるが、ほとんどが函館港から積み出されたことがわかる。

宮崎経営のソ連国営番屋(宮崎保氏蔵)
 一方、税関内では「露国国営専属」の看板を掲げた高木運送店と木村運送店がソ連担当で荷役を行い、弁天町で露国国営番屋を開いた宮崎は、昭和5年に鶴岡町に1500人を収容できる番屋を新築し移転した。このようにソ連国営漁業機関が置かれたことで、様々な波及効果がみられたのであった。  しかしながら、自給自足をめざすソ連の漁業政策により、昭和8年にはこのような密接な関係はほぼ消滅するに至ったのである。これは、その恩恵に浴していた日本人漁夫や、取引業者にとっても痛手であった。ソ連ではある程度日本の漁業生産のノウハウは吸収できていたようだが、実際のところは資金繰りが手詰まりとなり、日本からの物資購入が不可能になったものと思われる。昭和9年には、函館からのソ連漁場用輸出品は皆無となったが、「ソ国が今日物資不足のため三分の二位より漁場の経営を行はざる現状」(昭和10年3月3日「函日」)との報道もなされている。
 ところで昭和10年2月23日、日ソ間で東支鉄道(北満鉄道)の買収をめぐる「北満鉄道譲渡交渉」が決着した。鉄道は満州国の所有となり、その代償としてソ連には1億4000万円が支払われることになったのである。そのうち9330万円は物納となったが、函館でもソ連漁場向けの物資の受注が相次いだのである。このいわゆる「北鉄代償物資」のうち、昭和11年現在で函館の会社と取引が決まったものは表2−137のとおりである。この代償物資は昭和13年3月22日が取引終了日と定められた。しかし、受け渡しが完了しないものもあり、函館では最終的に昭和13年7月に西浜造船所建造の発動機船15隻を引き渡して完了となった(昭和13年7月10日「函日」、「函館税関外国貿易月報」)。こうして昭和10年から13年まで、北鉄代償物資として函館港からソ連向け輸出が復活したものの、その後はまた途絶してしまったのである。
表2−135
函館税関管内ソ連漁場からの輸入額表
                  単位千円
年次
輸入総額
[内訳]
生鮭鱒
塩鮭鱒
その他
昭和4

5

6

7

8

9

10
5,391
3,852
1,258
1,031
2,269
2,269
1,353
1,353
1,842
1,311
1,402
1,116
128
128
1,990

313

0

0

552

326

0
3,112

932

2,219

1,347

1,279

1,029

128
289

13

50

6

11

47

0
「函館税関外国貿易年表」より作成
注)千円以下は切り捨てた
   輸出総額の下段は函館港単独の数字
  表2−136
函館税関管内対ソ連漁場向け輸出額表
                    単位千円
年次
輸出総額
[内訳]
漁網
空缶
船舶
その他
昭和4

5

6

7

8

9

10

11

12

13
5,846
5,839
9,526
9,526
1,758
1,419
509
509
632
568
0
0
472
472
640
640
375
375
276
276
1,304

2,3881

165

48

0

0

0

0

0

0
1,296

2,340

1,274

379

568

0

173

0

0

0
1,160

2,228

5

3

0

0

274

562

370

276
2,086

2,570

314

79

64

0

25

78

5

0
「函館税関外国貿易年表」より作成
注)千円以下は切り捨てた
   輸出総額の下段は函館港単独の数字
  表2−137 北鉄物資受注会社とその内容
社名
品名
数量
金額(円)
西浜造船所 30馬力川崎船
50馬力蟹工船
用曳船
モーター・ボート
180馬力スクナー型
快速船
130隻

77隻
10隻

1隻
650,000

651,120
68,960

37,000
小計
218隻
1,407,080
船矢造船所 漁業用監視船
10隻
285,000
半田造船所 川崎船
20隻
95,000
日本製缶 平缶
20,000トン
150,000
『日露年鑑』(昭和16年版)より作成
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