通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 6 函館とロシア・ソ連漁業 カムチャツカ株式会社 |
カムチャツカ株式会社 P629−P632 ソ連の漁業、および漁業経済を支配する統一機関はソユーズ・ルイバ(昭和5年創立)であり、さらに極東にはヴォストーク・ルイバが創立され、その下に各種トラストや、国営漁業会社などが加盟している。ここに至るまでには若干の変遷があって、そもそもソ連政府は大正13年に国営会社オホーツク・カムチャツカ株式会社(オカロ)を組織し、極東漁業の開発に着手したのであった。
ソ連政府は極東漁業にも10か年計画を樹て、将来は日本を駆逐することを志向したが、皮肉にも当面は先進国日本に依存せざるを得なかったのである。つまり漁業用品の買い付け、日本人漁夫の雇用、傭船、生産物の販売が函館を中心に行われたのである(ただし輸出入業務は通商代表部が代行した)。 昭和3年、アコは鮭鱒鰊漁区21か所と蟹漁区2か所を経営、それにソ連初の蟹工船2隻のうち1隻を操業させた。この蟹工船2隻には函館から熟練漁夫を乗せ、漁網もおよそ3万7000反が積み込まれた。アコの各漁場には函館から1762人の漁夫が雇用された(昭和4年版『日露年鑑』)。因にこの年にソ連側に雇用された日本人は総数4388人(同昭和8年版)、通商代表部函館支部が函館市内で漁業用に費やした金額は630万円であった(昭和4年2月26日「函新」)。またこの年ソ連国営機関の漁獲物のうち、生魚は一手に日魯漁業が買い付け契約を結び、アコとは鮭50万尾、紅鮭15万尾の契約が成立した(昭和3年3月27日「函新」)。以降も日魯をはじめ、日本の企業がソ連漁場からの生産物を買い付けたが、函館税関管内の輸入額は表2−135のとおりである。大部分は函館港に荷揚げされるが、時には小樽にも運ばれた。
ところで昭和10年2月23日、日ソ間で東支鉄道(北満鉄道)の買収をめぐる「北満鉄道譲渡交渉」が決着した。鉄道は満州国の所有となり、その代償としてソ連には1億4000万円が支払われることになったのである。そのうち9330万円は物納となったが、函館でもソ連漁場向けの物資の受注が相次いだのである。このいわゆる「北鉄代償物資」のうち、昭和11年現在で函館の会社と取引が決まったものは表2−137のとおりである。この代償物資は昭和13年3月22日が取引終了日と定められた。しかし、受け渡しが完了しないものもあり、函館では最終的に昭和13年7月に西浜造船所建造の発動機船15隻を引き渡して完了となった(昭和13年7月10日「函日」、「函館税関外国貿易月報」)。こうして昭和10年から13年まで、北鉄代償物資として函館港からソ連向け輸出が復活したものの、その後はまた途絶してしまったのである。
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