通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 6 函館とロシア・ソ連漁業 ロシア人漁業者と函館の結びつき |
ロシア人漁業者と函館の結びつき P623−P625 ロシア極東領海での漁業をめぐっては、日露戦争前から、ロシア人と函館の商人・漁業家との連携がみられた。一例をあげれば、明治31年予備役の軍人ゾートフはサハリン北部のタムラオ漁場経営にあたって函館の沢克巳、西田季一郎と提携(「露国領薩哈嗹島漁業報告」外交史料館蔵)した。ここは優良漁場であったが、日本人には許可されない場所であった。翌32年ゾートフは渡辺熊四郎から矢越丸を購入している(「各国領事往復留」函館税関蔵)。この船は函館からの仕込、そして漁獲物を搬送するのに使用されたのであろう。カムチャツカでは特にこういった提携に積極的だったのが、マキエフ、ルツコフ、メナルドというロシア人漁業家であった(A・T・マンドリク「一八八〇〜一九四〇年代の極東におけるロ日漁業家の経済的関連」『一九九三函館・ロシア極東交流史シンポジウム報告書』)というが、相手方の日本人は不詳である。日露戦争後は、漁場経営に参画するロシア人が増えたので、こういった繋がりは消えることがなかった。ロシア人単独では漁業資本も十分でなく、また漁獲物の販路も日本、なかんずく函館をあてにせざるを得なかったからである。 例えば大正5年には、それまで中山説太郎が経営していたカムチャツカ川河口の優良漁場が、レンケというロシア人に落札された。その実は彼は名義だけで、函館で対露貿易商の看板を掲げていた斎藤豁三郎が経営したのである。函館市立北洋資料館には、この時斎藤がロシア語で記した帳簿が残されていて一端をうかがえる。 先のマンドリク論文によれば、それでも日露戦争後にはロシアにも大きな漁業資本の登場がみられたという。その中にはリューリ&ルービンシュタイン商会、デンビー商会、グルシェツキー商会という名前があるが、このいずれもが函館に支店を置いていた。というわけで、弱小漁業家から大手漁業家まで、かなりのロシア人が何らかの形で函館と関係を有していたということがいえよう。 さて、その後勃発したロシア革命はロシア人漁業家にも大きな影響を及ぼした。彼らのうち一部はソ連国内に踏み止まり、一部は国外へ脱出した。因に大正14年では函館を中心に漁業を営んでいるロシア人個人漁業家は25名いたという(大正14年11月13日「函毎」)。ソ連政権下から函館に移住してきたのは、大手ではデンビー、ナデツキイ、リューリ、ルービンシュタインなどである。しかし、この中には再びソ連政権に与して漁業を行うものもいた。一方では、ソ連国内に留まりながら函館に支店を置いた漁業家もいる。いずれにしても、革命後もしばらく函館とは縁を切ることができなかったわけである。 以上述べてきた中から、二、三の著名な漁業家について下記に詳述することにする。
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