通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 5 函館と樺太漁業 函館の建網漁業経営者 |
函館の建網漁業経営者 P620−P622 樺太から函館への移出品をみると、その大半を水産物が占めていた。昭和期の傾向(表2-131)も同様であるが、これは函館の樺太漁業家の業績ということもできる。当時の樺太漁業家をあげれば、表2−132のとおりであった。このうちから2、3の建網漁業者を紹介しておこう。
(2)永野弥平は敷香漁場に隣接するナヨロ漁場を樺太千島交換条約以前から経営しており、明治期の利益はすでに『函館市史』通説編第2巻に記してあるが、この期間は3か統の経営で、利益の最高は大正8年の10万1236円、平年漁で2、3万円の利益をあげていた。昭和2年に2万4945円の利益をあげた後、昭和4年には尾形、日魯漁業系の南樺太漁業(株)と合同して、東樺漁業(株)(本社函館)を設立した。上述した幌内川の荒廃を見てふみきったのである。東樺漁業は缶詰工場、冷蔵庫の設備を持って7年まで経営、7年には豊原に本社のある樺太共同漁業(株)に、昭和16年には樺太漁業(株)に、さらに昭和20年には樺太水産振興(株)へと合同を重ねて敗戦を迎えた。ニコライスク、カムチャツカヘ進出した小川弥四郎は明治時代の永野漁場の支配人であり、樺太建網漁業組合の組長として活躍した漁場主の笹野栄吉との3人は同じく能登西海村の出身者であった。 (3)新潟出身の海産商である高杉商店が樺太漁業に進出したのは大正13年で、小熊幸一郎から亜庭湾内の白岩漁場の権利を購入したことにはじまる。14、15年と利益を収め、次第に漁場数をふやし、昭和3年には6万5000円の利益をあげている。上述した鰊建網漁業の不振の中で機械の導入を積極的に行って漁業者の注目をあびていた。この亜庭湾内の15か統の経営は昭和7年の第1回大合同(前述の樺太共同漁業(株))に参加したが、昭和6年頃から西海岸の真岡付近の鰊漁業の経営に進出し、10年頃は全盛であり、自営の最後の年である17年の売上利益金は69万3508円に達したと記されている(『高杉家の歴史−函館高杉商店を中心として、風雪一〇〇年の歩み』)。第1回および第2回の合同会社の社長であった平塚常次郎から、「高杉藤三郎は漁業経営の達人」といわれたとのことである。 |
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