通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 5 函館と樺太漁業 日本領となった南樺太の漁業 |
日本領となった南樺太の漁業 P617−P620 日本領となった南樺太を政府は内国殖民地として開拓を進めるが、漁業制度をどうするかが大きな課題であった。まずロシア領時期から函館を根拠として営まれていた鮭・鱒・鰊網漁業者(33人)には優先権を認め、他方デンビー、クラマレンコなどのロシア人漁場は競争入札の方法により、最高落札者に許可(118か所)する方針に決まった。そして、鮭・鱒・鰊の三大魚族は資源保護の立場から建網以外の漁法での漁獲は認めないことにした。これを、建網および刺網漁法がとられていた北海道の二網制に対して、「建網一網制」と称した。三大魚族以外の水産資源は漁業鑑札を与えて漁業を許可(2563人)したが、この漁業には移民である定住漁業者があたり、鑑札漁業者とか雑漁民といわれていた。したがって、三大魚族については、旧来の建網漁業者と西海岸の鰊漁業の漁利を求めて高額で落札した新規出漁者(漁場主57人)の大半が函館根拠で出漁する従前通りの形式がとられた。しかし、移民による定住漁業者の数は増加し、大正元年には1万5000人をこえ、鰊を刺網で漁獲させよという刺網運動が強力に展開されてきた。大正5年6月15日の樺太庁長官岡田文治の訓示演説が、この間の事情を明らかにしているので要約しておく(函館日口交流史研究会編『函館・ロシアの交流を探る』所収)。 「私が樺太庁に就任するにあたって、樺太漁業界には三つの問題があると聞いて来た。それは一、漁業制度に関する鰊刺網免許問題、二、建網漁業料金軽減の問題、三、密漁問題であった。この問題は樺太が日本領となってから十余年間、なお解決されないまま懸案となっている。これに就いて、私は現在の漁業制度と樺太の開拓方針とが相互に矛盾していることが根本原因であると思っている。つまり、植民地の開拓には人口の移殖が必要である。漁業はもとより樺太島経営のための基本産業であるが、その形態はロシア領時代と全く同じく外国領地への出稼形式となっている。そしてこの形式による建網漁業者の納付する漁業料金が樺太開拓費用の大部分を負担している。しかし、移住漁民による水産資源の開発が進むにつれて、密漁問題が発生するなどして、建網の漁獲が漸減し高額の漁業料金軽減の陳情がくりかえされている実情である。そこで対策としては、移住雑漁民も鰊・鱒・鮭漁業に参加させて魚族の保護繁殖に直接の利害をもたせること、その結果として密漁も減少し、一方で開発費用を雑漁民に負担させることも可能となろう。また同時に一般の経済的事業を振興して、樺太開拓費用の財源を新たに求めることにしたい。」 こうした岡田長官の示した対策のその後の推移をみておこう。 一、漁業制度 定住漁業者の組織する漁業組合に地先の専用漁業権を与えること(39か所)にはじまり、漁法も刺網から小建網まで許可となり、専用漁場数は大正5年、11年と次第に増加した。11年から以後は専用漁業の漁獲高が定置漁業の漁獲高を超えるに至った。 二、漁業生産 前述の通り、定置漁業以外の漁業による水産物製造額が定置のそれを3から5倍以上上回るようになり、樺太漁業における建網漁業の地位は低下するが、これは函館の対樺太支配力の低下でもあった。鰊漁業の漁獲高の変動は魚群の回流変動を伴って大きく、大正5年以後は不漁が続く。鮭鱒の主要漁場である東海岸の敷香漁場は、幌内川上流の森林伐採と原木の流出、立地したパルプ工場の廃液など河川の荒廃が進み、昭和4年頃から不漁が顕著となった。一方、鰊は昭和に入って50万石をこえる豊漁が続くが、大泊海産商からの仕込関係や、鰊締粕価格の下落で経営は悪化していた。後述するが、樺太海産物の流通は函館商人から小樽、大泊商人へと移ったのである。
三、産業の発展 大正4年からの島内の産業別生産額の推移をみると、大正4年では総額943万円のうち、水産額が1位で64.2%、2位の工産額が23.6%であった。ところが第1次世界大戦中に工産(パルプ、製紙)が49.6%に達し、水産の39%を抜き去っている。大正11年には工産が51.4%、水産が29.4%、昭和7年には工産62.5%、水産13.9%である。そして、林産(パルプ材、一般材)と鉱産(石炭)が躍進して来て、昭和12年には工産60.3%、林産15.3%、鉱産10.4%、水産9%と水産の低落が目立っている。このように、樺太の産業は日本の戦時経済にくみこまれて発展したのである。 四、樺太との物流 物流を函館と小樽との比較でみると、明治39年から大正10年までの間、移出・移入額の合計では小樽を1とすると、函館は1.7からはじまって明治43年の2.9をピークとして、大正3年には1.5、そして4年では0.7と逆転され、10年には0.5と小樽の2分の1になっている。昭和に入って、4年から16年までの間の樺太から函館、小樽に対する移出、移入額の全体に対する比率をみると、樺太からの移出では、昭和4年函館が3.1%、小樽は2.9%、しかし5年からは小樽が上回り(図2−14)、函館は低落の一方で昭和13年には0.5%となっている。小樽は4.1%であった。樺太の移入の比率は移出より高く、昭和4年で函館は9%、小樽は37%、5年以後の函館は低落して13年からは1.5%となる。小樽は30%台で推移している。樺太からの移出が函館、小樽ともに低いのは、樺太の木材、パルプ、海産物などが直接本州の府県へ移出されたからであり、移入で小樽が高いのは、樺太島民の日用生活物資、漁業用品が小樽の商人の手を経て樺太へ供給されたためである。函館の移入品の主なものは、鰊粕、乾鱈、数の子、塩鱒、魚油、丸太材であり、移出品ではセメント、塩が多かった。樺太に対する小樽の優位は大正初期に確立されその後も上昇したことが読みとれる。 五、建網漁業経営 上述したように、樺太に対する函館の地位の低下は激しいものであったが、函館根拠の建網漁業者の中には、この期間においてすぐれた経営成果を収めている者もある。以下に、函館の樺太漁業家についてふれておく。
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