通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 6 函館とロシア・ソ連漁業 リューリ(兄弟)商会の実態 |
リューリ(兄弟)商会の実態 P626−P628 リューリ兄弟商会はアムール川河口のニコラエフスクに、明治35年に発足した。同地には島田元太郎が経営する島田商会があったが、漁業経営にあたっては両者には密接な関係があったと思われる。島田商会は日本から同地にくる漁業者たちに様々な便宜を計り、函館からの出漁者の大多数もやはり島田商会を足掛かりにしたものと思われる。ところで、明治43年に島田元太郎名義の漁場で奥川某が、缶詰6万缶を製造したと報告があるが(明治43年度『露領沿海州水産組合業務成績報告』)、奥川某は奥川教孝といって函館リューリ商会の支配人となる人物である。明治末か大正初期頃に、彼を支配人としてリューリは函館支店を出したのであった。 ロシア革命時にはデンビー同様、彼も祖国を離れざるを得なかった。大正9年に尼港事件が起こると、「日露ブルジョアジーの代表格として周辺住民からとりわけ深い憎悪と怨恨を買っていた」(原暉之『シベリア出兵』)リューリと島田は大打撃を受けたのである。弟を殺害されて、商会の経営者メーエル・リューリは日本に避難した。
大正11年末、日本軍が沿海州から撤退し、ソビエト政権は極東も制覇した。しかしネップ(新経済政策)下にあって、極東の漁業経済は一気には国営化されず、民間漁業者を援助するという姿勢がとられたのである。興味深いことに、この頃函館在住のロシア人漁業家ブラゴイチェンスキイ、ダニチ、オルロフらにソ連漁業監督官から「保護してやる」と打電が入ったという(大正13年5月4日「函日」)。低利の資金融資と輸送手段(義勇艦隊)を無償で提供するという内容であった。こうした雰囲気に一度は国外へ脱出した漁業家たちも、ソ連国籍をとったり、中には帰国したものもいるのである。先のブラゴイチェンスキイや、ダニチは函館に日本人妻子を置いたまま帰国した。 さて、リューリもソ連国籍を取った1人である。彼は函館に店を持ち、ウラジオストクに支店を置くかたわら、大正13年に国からの融資を期待し「ダリモレプロドクト」という政府系の企業を設立し、支配人に就任した。しかし、同年末に支配人の義務を拒み、函館リューリ商会社長という肩書きで残留した(A・T・マンドリク『ロシア極東漁業の歴史』)。このへんの事情は不明であるが、大正15年以降はリューリは独立経営となった。こうしてリューリは、革命後も函館を根拠に漁場経営を続行したのである。ところが、昭和2年は不漁だったため、没落の危機に瀕する打撃を受けた。函館の商人40人ほどから140万円の債務を負ったが、その債権者には太刀川善吉(米穀商)、末富孝次郎(函館製網船具)、小熊商店(海産商)、橋谷合名会社(荒物雑貨商)と函館最大手の商人たちが含まれていた(昭和3年10月10日「函日」)。これを救ったのが、ソ連政府である。翌3年にダリバンク(極東銀行)からの融資で行った漁業が大成功で、この危機は何とか回避されるめどがたったのである。ソ連政府はリューリが函館で保持している金融筋、労働力、情報などを活用するためにこういったことを認めたのではないだろうか。この時リューリは「自分は函館へ来てから約二十年になり…、ただ事業のみを生命としゐるもので…函館の商人に迷惑をかけたり、函館の漁業家の事業を侵害するやうなことはしない」(同前)と述べ、債権者たちもこのことばに同情し、猶予を与えたのだった。 リューリはこれまでの実績から、新経済政策後のソ連当局に極東漁業のスペシャリストとして認められ(昭和4年版『日露年鑑』)、以降国家資本を背後にめざましい活躍をしたのである。そのような中、リューリは第三インターの日本における策動の拠点である(昭和4年6月4日「函新」)というような報道もなされ、官憲の注意をひいていた。 しかし物資の購入にしろ労働者の雇用にせよ、昭和8年には終止符がうたれたのであった(後述)。リューリ商会は函館にいてソ連の漁業外交の先兵の役割を果たしたといえるのではないだろうか。革命前からの漁業家ながらデンビーとは極めて対照的であった。その他、函館在住のルービンシュタイン、ナデツキイもリューリ同様に、政府の融資により、漁場経営を行った。なお、ウラジオストクに本社を置くルイボプロドクト(ポポフとグリエンコによる個人漁業)も、函館に支店を持ち昭和6年まで活動した。 |
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