通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 4 母船式鮭鱒漁業の展開 沖取漁業への農林省の対応 |
沖取漁業への農林省の対応 P613−P615 陳情を受けた農林省においても、日ソ漁業条約の改訂期を間近に控え、鮭鱒資源の保護、販売統制などの見地から、制限措置の必要を認めて、昭和10年度の付属漁船を、9年度の311隻から3割を減らす減船案を提示した。これに対して、太平洋漁業以外の沖取漁業経営者はこぞって反対運動を展開した。農林省は、再審議の結果、12月15日、資源維持と販売統制、および北洋漁業全体の統制を図るためには、付属漁船の3割減船は必要だが、付属漁船の大部分が、昭和9年の冷害を受けた北海道、東北地方の漁船であることを考慮して、昭和10年度に限り、300隻に制限し、11年から3割減船を実施するという方針を示し、同時に母船式鮭鱒漁業水産組合(昭和8年10月4日創立)に対して「此際母船式鮭鱒漁業関係者ハ進ンデ企業ノ合同ヲ行ハレンコトヲ希望スル」として自発的な企業合同の実施を要請した。これを受けて利害が一致する東邦水産(坂本作平)、袴信一郎、藤木次郎平の3者は、合同して資本金200万円の株式会社を創設する案を検討しはじめたが、北洋協会、露領水産組合、大日本水産会、帝国水産会などの中央水産団体の会長らが平塚日魯副社長を交えて協議した結果、中央団体の立場から、沖取漁業全企業の合同案を農林省に提出した。 こうした状況の中で、農林省は、急速な拡大を遂げた沖取漁業における資源維持、製品販売とその他北洋漁業全体の統制を図ることが必要で、ことに日ソ漁業条約改訂交渉で日本の漁業権益を守るという見地から、企業の大合同の方針を固め、12月21日、在京当事者を農林省に呼び、「漁業者を打て一団とせる単一企業」に合同することを勧奨した。次いで23日、母船式鮭鱒漁業水産組合(昭和8年10月4日創立)副会長坂本作平が函館から招かれ、長瀬農林次官より重ねて「至急漁業の単一合同化の実現方」を強く求められた。 この企業合同については、かねて、農林省から強く要請されていたものだが、このような急な督促に沖取経営者はとまどいながらも、種々対策を協議した結果、合同の条件次第では、合同論を受け入れようという意見が多数を占め、条件を示して合併を容認することにした。母船式鮭鱒漁業水産組合は、市場価値が不明な沖取合同新会社の株式を所有するよりも、沖取漁業関係各社の許可権全部を東洋拓殖株式会社の持つ日魯優先配当付株式18万株と交換し、改めて日魯漁業株式会社を中心にした新株式会社を創立する案を示しその実現を農林大臣に陳情した。 しかし、農林省は、この案を退け、昭和9年中に大合同を実現し、かつ露領漁業との調整を図ることを理由に、合同の中心勢力となるべき日魯漁業系の太平洋漁業に対し、沖取漁業企業全部を買収する具体案の提出を求めた。
しかし、農林省は合同問題を翌年まで持ち越すことは事態を益々紛糾させることになるという判断から、母船式鮭鱒漁業水産組合幹部らに重ねて要請を繰り返し、日魯漁業側の個別的働きかけもあって、12月末、先の日魯案による企業合同を組合側も受け入れた。 かくして、昭和9年の年末ぎりぎりの段階で、母船式鮭鱒漁業は、農林省の強力な行政指導を媒介に、太平洋漁業株式会社に吸収合併されたのである。 |
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