通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 4 母船式鮭鱒漁業の展開 母船式鮭鱒漁業の発展 |
母船式鮭鱒漁業の発展 P608−P609 この時期、鮭鱒沖取漁業が企てられたのは、露領漁場におけるソ連当局の圧迫が厳しくなったことによる。いうまでもなく、公海上の操業では、多額の借区料の支払いやソ連当局の取り締まりを受けることなく、自由に操業できたこと、そして、鮭鱒缶詰の輸出が好調であったこと、露領漁業における企業の大合同の実施などが沖取漁業の拡大を促進した。ことに、露領漁業における企業合同の影響が大きい。企業合同で漁場を失い、新たな投資の場を求めていた露領漁業家に、格好の転換先を提供したが、これに、沖取漁業の将来性を期待して投資の機会をうかがっていた投資家が競って参入することになった。この沖取漁業は、最初、制度上は自由漁業であった。ところがその将来性が注目され、企業化の動きが目立ち始めると、農林省は鮭鱒資源の保護と露領沿岸漁業との調整を図るため、昭和4年6月、企業進出に先行する形で、「母船式鮭鱒漁業取締規則」(農林省令第12号)を公布し、沖取鮭鱒漁業を、農林大臣の許可漁業として農林省の管理下においた。 この規則では、従来の鮭鱒沖取漁業を母船式鮭鱒漁業(製造若ハ保蔵ノ設備ヲ有スル船舶又ハ之ニ附属スル漁船ニ依リ為ス鮭鱒漁業)と規定して、これを営むには農林大臣の許可が必要とされるようになった。制度施行後の最初の許可は、平出喜三郎ほか2名(函館)、(株)八木本店、窪井義道ほか2名(愛媛)、日魯漁業株式会社(東京)、綿貫覚(函館)の5件であったが、実際に出漁したのは日魯漁業1船団のみで、母船錦旗丸(999トン)が出漁し、鮭鱒7753尾を漁獲して、塩蔵鮭鱒4000貫を生産した(表2−126、127)。翌5年には、新規の許可2件が加わり、許可数は7件となったが、出漁したのは、日魯漁業、八木本店、昭和工船漁業の3社で、母船6隻が操業して、68万尾の鮭鱒を漁獲して、1万6000函の缶詰を生産した。しかし、採算点には程遠い成績であったという(『北洋漁業の経営史的研究』)。 このような成績不振は、当時の沖取漁業の漁法が不完全であったことによる。当初沖取漁業では浮建網が使われた。この漁法では、ソ連の領海3海里線を起点に、沖合に向け長さ200から500間の網(垣網)を敷設し、その先端部に接続する身網内に魚群を誘導して鮭鱒を漁獲した。原理的には沿岸で使用される定置網と同様のものであったが、浮建網は、沖合に敷設されるので、潮流や波浪の影響を受けやすく、来遊する魚群の密度によって漁獲量は大きく変動した。先に述べた八木、平出らの失敗もこのような技術的欠陥によるものであった。 沖合建網漁業が難行する中で、それまで補助的に使用されてきた流刺網に改良が加えられ、次第に実用化されるようになった。昭和7年に、北海道水産試験場の試験船探海丸が、刺網の材料を綿糸から麻糸(ラミー)に換えて試験操業を行ったが、魚のかかりが良好で、以後流刺網が急速に普及することになった。流網の使用反数は、昭和6年に1630反であったものが、8年には1万3664反、翌9年には2万7460反に急増した(表2−128)。 このような流網漁法の開発と普及が、その後の母船式鮭鱒漁業の本格的な発展を支えたのである。
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