通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

5 造船業・機械器具製造業の動向

造船業・機械器具製造業を支えた経済的諸要因

統計より見た金属工業・機械器具工業(造船業を含む)

造船業の推移

機械器具製造業の推移

大火の影響と工場分布、工業組合の設立

造船業・機械器具製造業を支えた経済的諸要因   P469−P471


図2−7
A 地域別鮭鱒缶詰生産高
(『日本鮭鱒缶詰共同販売会史』昭和18年)
注 樺太、内地を除く

B かに缶詰製造高
(『日本水産50年史』昭和36年)
注 陸上には樺太、北見、択捉、北千島を含む
 まず北洋漁業の興隆があげられる(図2−7参照)。鮭鱒の露領漁業は日魯漁業が中心で、大正期の始めから伸びているが、昭和5年頃から沖取工船や北千島漁業による生産が加わった。かに缶詰の生産は7、8年の落込みはあるが、これも高い水準で推移している。当時の函館は大正10年に露領漁業を統合した日魯漁業(株)をはじめ、各漁業会社の出店があり、ここで仕込し、出漁していったから、北洋漁業の一大基地を形成していた。獲れた鮭鱒、かには殆どが缶詰に製造されイギリス、フランス、アメリカへ輸出された。鮭鱒の場合、缶詰製造は原料の浜デッキ受け入れから、製品になるまで28工程を経て製品となる。これらにかかわる加工機械を総称して缶詰機械といったが、この1ラインはフィッシュカッター、エキゾーストボックス、シーマーなど多様な機械で構成されていた。ライン数は、北千島鮭流網を例にとると、表2−77のとおりである。この他に漁場の設備には、大量のタグボートや漁船、物揚用ウインチ、ボイラー、漁業用錨などがあった。かに缶詰の製造は陸上と母船式に分れるが、母船式の場合は缶詰工場の他に、付属の発動機船や川崎船を必要とした。これらの機械や船舶の製造修理に、日魯漁業(株)では台場町工場(以下日魯鉄工所という)や七重浜造船所(以下日魯造船所という)が対応した。その他の漁業各社の需要については市内の鉄工場、造船所がこれにあたった。なお、缶詰用空缶の需要を見込んで、地元資本の日本製缶(株)が14年に設立された。またソ連国営企業より漁業用資材の注文もあいついだ。大正12年頃より漁船などの注文はあったが、大量にでたのは昭和4年である。これにはタグボートや漁船(磯舟、三半船、胴海船、川崎船など)、汽缶、機械類、空缶などが含まれていた。同5年の輸出の内、漁船は275万円(内タグボート165隻、69万円)にのぼる。この頃の船価は三半船870円から1300円、胴海船790円、タグボート、機関付4000円、機関無し2500円であったから、その量の膨大さが推定される。その後ソ連からの注文は国策により8年で中断されるが、10年には再び北満州鉄道代償物資としての漁船注文があった(第2章5節6参照)。これらの注文船は13年までかかって送りだしている。
表2−77  北千島鮭鱒流網各社の操業(昭和12年)
経営者
所有漁船
許可ライン数
着業ライン数
紅鮭缶製造高

幌筵水産(日魯系)
太平洋漁業(日魯系)
袴信一郎
千島漁業
北海道漁業缶詰
沖取漁業(林兼系)
北千島漁業運送(林兼系)
藤野缶詰所
北千島合同漁業(日水系)
東邦水産

65
17
5
5
22
19
14
19
24
10

7
3
2
1
3
2
1
2
2
2

5
3
2
1
2
2
1
2
2
2

81,934
33,736
22,063
6,486
35,999
24,059
12,569
27,176
31,991
8,346
合計
200
25
22
284,359
『日魯漁業経営史』第1巻より
注ライン数は缶詰生産ライン数のこと
 さらに函館港在籍船がこの時期も多かったことや、動力付漁船の増加といったことも、一要因をなしていた。在籍船の汽船はこの時期も高い水準で、全道の5割を占めている。帆船は急速に低下しているが、6年頃までは大型スクーナー(200〜500トン)が汽船と共に露領漁業の送り込みに使われた。機帆船(発動機付帆船)は大正後期より増加して、全道の3割を占めるようになった。50トン〜200トンの船が石炭、雑貨などの輸送に使われたが、20トン未満の漁業用発動機船で、燃費節約のため帆装を施したのも多かった。漁船は国の施策もあり、沖合漁業への指向で大型化と動力化が年と共にすすんだ。大正初期には汽船が漁船として一時使用されたが、大正13年頃より焼玉機関を据え付けた発動機船が操業を始めた。北洋鮭鱒漁業の独航船は25トン前後、かに漁業の独航船には20トンから40トンの発動機船が使われた(『北洋鮭鱒』、『蟹缶詰発達史』)。沿岸漁業の小型の発動機船は安価なこと、揚陸が容易なことから和船づくりの和洋折衷型(半キール型とも呼んだ)が多かったが、10トン以上は洋型構造のものが主である。昭和8年頃、近海では10トン程度の発動機釣漁船が柔魚釣用として盛んに使われたが、これは鰮旋網用、底曳網用にも用いられた。中には20トン近くもあり流網独航船に兼用されたのもある。前浜漁業の小型和船の動力化も盛んで初期には磯舟に機関を取付けたが、のちに加賀天当型の小型和船に電気着火式の石油機関を取付け、チャッカーと称した。これは延縄漁にも広く使われた。
 昭和12年8月に漁業経営費低減補助金交付規則が公布され、船首、船尾の改造には50%、重油発動機(焼玉機関)の購入費用には30%の補助がなされた。これらは大きな刺激となり、漁業ばかりでなく、造船所、鉄工所にも活性化をもたらした。

イカ釣発動汽船 小舟町漁港(『函館の商品』昭和9年)
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