通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 造船業・機械器具製造業の動向 機械器具製造業の推移 |
機械器具製造業の推移 P479
機械製造業 P479−P483 (1)一般諸機械。(株)有江鉄工所は震災後の東京へ製材機械(バンドソー、おさ鋸盤)を供給した。また、興隆期の夕張炭鉱へ炭車、捲上用ウインチ、ポンプなどを北洋漁業向けに缶詰機械を納入したが、昭和6年、累積赤字のため専務の有江利男は辞任し、30万円に減資して(株)ウロコ鉄工部に改組した。ここは鋳物、鍛造部門を引継いだが、9年の大火後、亀田村字港355へ移り、需要の多かった魚粕用圧搾機(締胴ともいう)や、国内化学工業の勃興で市況が回復した硫黄鉱山(松尾、三盛)向けに硫黄釜を製造した。設計と機械部門は東京へ移り昭和8年(株)ウロコ製作所となった。星野工業(株)は奥尻、十勝の鉱山へ硫黄釜を供給し、また、炭鉱用の炭車や漁場用のストーブを大量に作った。青銅製品は消防の鐘、梵鐘、スクリューなどである。大火後、亀田村字本町へ移ったが業績振るわず昭和17年に廃業した。(2)舶用汽機、内燃機関。高田鉄工所は汽船の大型化で小型の汽缶、汽機の需要が減少し、機帆船や漁船の焼玉機関の仕事が主となった。昭和4年に親戚の山城市三郎が引継いだが、8年に廃業した。目黒鉄工所は昭和13年頃までは盛況であったが、14年に福田春治が経営を引継ぎ(丸源)函館鉄工所として再発足した。池田鉄工所は工場長だった貝森平治郎が、大正13年に事業を引継いで業績を伸ばした。大長鉄工所は高田鉄工所出身の出川大一郎と三浦長吉が大正6年に創立したもので舶用機関の新造修繕を得意とした。 (3)漁業用機械。関商会は新潟県出身の関留八郎の設立で、大正7年に関留式延縄捲揚機でパテントを得た。没後、養子の豊作があとを継ぎ、昭和5年に関式揚網機を発明した。また、10年には北海道で始めて漁船用無注水式焼玉機関(10馬力)を作り、北海道の農林省検定第1号となった。(合資)水谷商店(昭和3年創立)は店主水谷元右衛門がパテントの魚粕用圧搾機を大量に作り道内、樺太に供給した。木製角型だった締胴は鉄製の円筒状となり操作も容易になった。
日魯鉄工所は大正10年に堤商会の鉄工部を引継いだものである。漁場より持帰った自家用缶詰機械、舶用機関の修理が主であったが、新台の製造も行った。これには山村、星野など多くの鉄工所が協力した。缶詰機械の内、精密を要するのは3Cクリンチャー、4DSシーマーなどであるが、8年頃からは工船用に17DSバキュームシーマーが加わった。日魯漁業の拡大と共に取扱い量も増した。昭和10年、台場町に鉄筋コンクリート3階建の工場を新築し、輸入工作機械を設備して東北、北海道随一の鉄工所と云われた(写真)。工場長は山田繁造である。 日本製缶(株)(以下日缶という)が缶詰空缶の供給を始めると、日魯漁業以外の漁業企業家へ缶詰機械を提供する必要が生じた。始めは日缶の依頼で有江鉄工所がその任にあたった。しかし、7年に東洋製缶(株)(以後東缶という)が日缶を系列化すると、8年には幸町に新工場をつくり、9年には缶詰機械製作専門の(株)本間鉄工場(資本金3万円)を新浜町の旧日缶工場内に設立した。社長の本間米作は新潟県中条町出身で、山村鉄工所で年季あけした後、東缶に勤め系列下の林鉄工場の工場長をしていた。本間鉄工場の缶詰機械製造は巻締機が主で、丸缶用122型バキュームシーマー、楕円缶用125型自動シーマーなどである。巻締機以外のスライマー、エキゾーストボックス、レトルトなどは富岡鉄工所が協力工場で製作にあたった。工場主の富岡徳三郎は山形県米沢市の出身、大正8年に来函し、星野工業、日缶を経て昭和2年に独立した。建築・機械の工務所を経営したが、10年には缶詰機械製造の工場を東雲町に新築した。本間、富岡の缶詰機械の供先は北千島の鮭鱒漁業、蟹漁業並びに沿岸のトマトサージン缶詰事業が主であった。しかし、鮭鱒漁業各社が生産調整のため、日魯系の北千島水産(株)に統合されたことや、鰮の不漁によるトマトサージン缶詰事業の衰退で、13年頃から缶詰機械の需要は急速に低下した。経済状勢の変化を見越して、本間鉄工場は12年に資本金を10万円とし、政府補助のある漁船用無注水焼玉機関の製造を始めた。富岡鉄工所は前年から試作していた工作機械の分野に進出を決め、六呎米式精密旋盤の製造を始めた。旋盤は需要旺盛だった東京で販売した。 鋳物業 P483 銑鉄鋳物のうち、肉薄物のストーブ、建築金物。街路灯、機械部品は村瀬、相原(昭和8年創立)、宝商会(昭和5年創立)、松本(大正10年創立)らが作った。村瀬鉄工所はこの分野の草分けで、創業者村瀬定次郎は岐阜県の出身、水圧物の水道部品や青銅鋳物に熟達していた。大火後は宮前町へ移った。肉厚物は焼型が多く、製品は大型機械部品であるが、有江、星野、共和、宮川(明治44年創立)、吉野(昭和4年創立)らの工場があたった。青銅、黄銅鋳物は、当時、砲金屋といわれた川島、田辺(大正11創立)、竹内(昭和3年創立)、島津(昭和12年創立)、古川可吉(昭和5年創立)らの工場が担当した。製品はポンプの羽根車、スクリュー、軸受メタル、バルブ、時鐘などである。川島砲金工場は、山形市銅町出身で、北海道鉄道管理局付属工場の鋳造職場主任だった川島初太郎が長男の善治と始めたものである。昭和2年、次男の徳次が引継いだが高品質が評判であった。この他、黄銅鋳物で家庭用炉鍵、炉鍋を作る野村、飯田、前、富山などの炉鍵製作所があった。仕上や彫刻の優秀さで、本道のみならず東北地方へも販路を拡げた。ボイラー、タンク、鉄製構造物製造業 P483−P484 大正初期にガス溶接機が、昭和初期に電気溶接機が導入された。しかし、鉄製構造物の主流は従来の鋲接手で空気鋲締機が使われていた。この分野の老舗である武田鉄工所は各種ボイラーの他に、鉄骨構造の消防望櫓(第1部、第3部)を2基作った。木下鉄工所は75トンクレーン船を昭和10年に建造した。山口鉄工所は大正の終り頃、砂糖ブームに沸く十勝清水の甜菜糖工場のプラント、設備機械を請負った。また、函館放送局の59メートルアンテナ2基も手掛けた。星野工業(株)は函館市万代町と青森市新町、堤町の三3の望櫓を製作した。なお、大正10年の大火後鉄筋コンクリート造の建物が増え、これに用いる鉄製サッシ、防火用扉など専門の北立建材工業所が操業を始めた。鍛冶業 P484−P485 鍛冶業は日本海沿岸の出身者が多く、工場数は多いが小規模のところが多かった。それは技術を持っていれば小さな設備で開業できたからである。木造船用の船釘や漁具、建築金物、家庭用金物などは高橋(旭町)、東(真砂町)、早坂(東川町)など多くの鍛冶工場が製造した。船釘は全長14、5メートルの保津船で192キログラム、建造費の1割を必要とした(保津船は三半船の舳の短い漁船で増毛地方の鰊漁に多く使われた『北海道開拓記念館調査報告』No.18)。漁船はその大小にもよるが、全道で毎年2000隻近く新造していたので船釘の需要は大きかった。漁業用錨や船舶用錨の製造は花野(西川町)、鐙谷(同)、木下藤作(真砂町)、佐藤(西浜町)、東、早坂らであるが、この内、蟹刺網用の錨は、北洋漁業向けに、花野鉄工所だけで毎年500個〜800個作った。船釘や錨は函館の特産品であった。農作業用具や山林用道具は野鍛冶の伝統を継ぐ鍛冶(万代町)、草薙、間島、小室(何れも亀田町)、渡辺(旭町)、大出雲、進藤(何れも大野村)らで亀田方面に多かった。くわ、かまの他に農業用具のとうみ、押切器、澱粉ロール器、馬耕用のプラオ、ハロー、カルチベーター、また、なた、まさかりなどの刃物類も作った。鍛冶は慶一郎の代で、能登から来た2代目ということで「の二」と称した。渡辺は秋田市鍛冶町の出身、出雲も同じく秋田の野鍛冶の家柄で当主長吉の時大野村へ移った。弟子が草g洋吉である。農作業用具、山林用具は近郊のみでなく道内に広く販売した。
車橇製造業 P485 馬車、馬橇は道央の石狩型と異なり、函館型として特徴があった。特に馬橇は道央の柴巻橇に対してカナ橇と称し、多くの金具を用いるので、木工技術の他に鍛冶技術が必要であった。飯田(若松町)、掘田(万代町)は草分けである。業者は亀田、湯川地区に多く、永井、前田、出倉、杉本、川岸など約15工場があった。函館型車橇は商圏であった日高、釧路、根室地方でも使われていた(『北海道開拓記念館調査報告書』No.16、No.18)。 |
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