通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 造船業・機械器具製造業の動向 造船業の推移 |
造船業の推移 P474−P479 この時期、造船所が製造、修理した木造船を和船と洋型船に分類すれば表2−83のようになる。動力船は発動機船、タグボート、かに工船用川崎船、チャッカーの製造が主であるが、無動力船は磯船、三半船、川崎船などの漁撈用和船と港内運送用のはしけの製造である。昭和10年頃まで、函館市、渡島支庁管内の漁業従事者が新造した漁船数は毎年、500隻〜700隻で、全般的にみて全道の2割〜3割を占めている。ただし5年は735隻、9年は1005隻と突出したが、前者は駒ヶ岳噴火の被害による鹿部村、尾札部村などの漁船復旧対策の、後者は強風を伴った函館大火の漁船流出や焼失に対する復旧対策の需要増である。これらは函館の造船所に発注された。漁船の北洋漁業向けには、2年と7年に日魯漁業より、漁船、発動機船50数隻の注文が造船業組合を通してなされた。また、漁業各社やソ連国営企業の大量注文もあった。この時期は造船所数が多かったため、過当競争の気味はあったが道内外の需要で潤っていた。同2年2月20日の「函館日日新聞」に「岩内の漁船奪取戦で昨年は廿五隻の新造船あるうち函館側は其の三分の二を取り…昨年から今年へかけて函館へ落ちたと見られる大口注文を見るに昨年末、トルードウド(編注・ソ連通商代表部)より漁船四十隻、蟹工船山天渡辺(編注・昭和三年に北海道漁業缶詰(株)となる)より十六隻、松田漁業の大型二隻、小型五隻、共同漁業の一隻及び修繕」とある。10年には木造船所で鋼船(樺太丸36トン・20馬力、客船、小杉造船所)も造られるようになった。
船矢造船所は昭和9年、早吉が没して、嫡子喜之助が引継いだ。10年のソ連の注文では、漁業用監視船10隻を受注している。12年6月には資本金20万円の(株)船矢造船所に改組し工場敷地を3000坪に拡げた。日魯造船所は自社漁場用の漁船、タグボートの製造、修繕が主である。昭和4年の頃は製材所、工場、ボイラー室、鍛冶工場を備え、船大工100人、製材職人、鍛冶職人40人を傭して、補給の漁船を毎年120隻程度作っていた。所長は渡辺六造である。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |