通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 4 昭和9年大火前後の工業界 各産業の状況 |
各産業の状況 P461 各産業(業種別)の構成・内容については、表2−68(→工場数と職工数)、70(→製造業の生産額と収益状況)より詳しいものがないので、整合性には欠けるが、『北海道庁統計書』(主要工産物表)その他の史料により検討を進める。食料品工業 P461−P463
醤油・味噌醸造業も昭和9年以降は急激に衰退している。さきに引用した影響調査によると「罹災工場ハ味噌・醤油製造十、…醤油二千三百石ヲ焼失シタ 味噌醤油ハ酒類製造ニ比スレバ日用欠クベカラザルモノナルヲ以テ需要減ズルコトナク其ノ回復容易ニシテ 斯業ノ打撃ハ工業ノ全体ヨリ見テ尠ナイ」と書かれているが、大火を契機として本州からの移入は急激に増加した。旭醤油工場や宮崎味噌工場も9年から姿を消している。9年の18工場は13年には10工場となっている。国兼、茅原の味噌・醤油工場が大きい方であった。昭和15年の醤油・味噌工場は7工場で製造額は40万円である。 醸造業ではないが清涼飲料水製造業も4工場が罹災している。そして市場では、本州からのリボンシトロンや三ツ矢サイダーの進出があって苦しかったが、復旧して14年には4工場で生産額19万円、15年には3工場で生産額は28万円であった。 函館市の工産中常に2、3位を占め、製品は東京以北で随一の優良といわれた製菓業では、規模の大きい函館菓子製造(株)と帝国製菓(株)の2社はビスケットの製造を、国産製菓、産陽製菓、道産製菓はキャラメルなどを主に製造していた。風月、精養軒、塩瀬、千秋庵などの食パン、和洋生菓子店も著名であった。そして、菓子種業者もあん(函館根津製あん所)、飴(砂子製飴所)、製粉(五香製粉所)、澱粉(苅田工場)の製造とそろっていた。9年の大火の製菓業界に与えた損害額は約23万円であったが、昭和10年の菓子生産額は約225万円(『函館産業大観』より引用)である。そして同年の本州からの菓子移入額は640万円、函館から道内および本州への移出額は約643万円で、この頃の菓子市場の発展は急である。なお、昭和14年の菓子・パン・飴類の工場は103工場で、生産額は445万円、15年は45工場で生産額は594万円(『北海道庁統計書』)となっている。函館菓子製造(株)は昭和10年に明治製菓(株)に買収され、同社の函館工場としてビスケット、バター飴、キャラメルを製造し、南洋方面へ輸出もしている。またビスケット、キャラメル、クリームサンドを製造している帝国製菓(株)は、すでに各地に工場を設けていたが、昭和11年には東京の小菅に工場を設置する勢いであった。同社は戦時経済体制となってからは軍需品としての乾パンが主力製品となり、凍乾飯も製造した。製氷業では、本州において竜紋氷として有名であった五稜郭の天然氷は、昭和12年竜紋倉庫より一切の権利が日本水産に譲渡されて、五稜郭氷は中止された。市外には少量の天然氷が採取されたが、食用でなく魚類の冷蔵用に供され、人造氷の製造は小熊倉庫冷凍部と日本水産会社で行われていた。 水産製造業 P463−P467 この時期、函館市は水産加工業の発展に努力しており、昭和5年1月5日付の「函館毎日新聞」には市の産業課長杉村大造の次のような談話が掲載されている。その内容は、「海産中心市場を擁して水産加工業の発展ぶりと大量生産なきは頗る遺憾とし且物足らぬ感がある」と述べて、すでに小熊冷蔵庫と函館倉庫冷蔵庫が建設されているから、必然的に加工業が勃興しなければならないとし、「既設の小企業を合理化して水産大加工業を創設するに至れば、これを正系として傍の産業界の勃興亦期して待つべきものあり」と強く主張している。ただし、杉村課長は産業第一主義と港湾第一主義をならべて主張しているので、振興すべき第1の産業は海運業、第2が水産加工業、第3が木材加工業としている。すでに昭和3年に水産立市を市是としている函館市は、この年には弁天町に水産試験場函館支場を相馬哲平の寄付により建設に着手している。そして佐藤市長は市主催の市民懇話会で「漁業の策源地また水産市場として、水産業及水産加工業の振興の中心力をなすところの試験研究機関を設置する」と述べている。市勧業課には水産技師1名が常置された。昭和4年には函館高等水産専門学校の建設計画に伴う敷地(亀田村有川通)寄付があり、10年に開校している。このほか水産振興展示会が開催されており、水産試験場内に各界を集めた水産製造会が組織されている。 これら一連の施策の結果は、例えば昭和10年10月、昭和天皇の函館行幸の際の視察場所に水産試験場が選ばれたことにもあらわれている。 昭和9年の大火が水産加工業に及ぼした影響もみておこう。出火元である住吉町から大森町に至る海岸は鰮、いか釣の漁業基地であり、昆布、雑漁地として漁家が多く、したがって水産加工業もこの地帯に多かったので、焼失加工場は42件、損害約31万円にのぼつたが、幸いに鯣、鰮加工の時期はすぎていた。そのほか、缶詰業の罹災工場が2件であった。フィッシュミール工場の罹災は1件で、他の工場で生産を補うことができた。
鰮缶詰の製造状況と輸出状況は表2−74、75で示してあるが、函館の近海や噴火湾(鰮といかは全道および全国における主要産地であった)で漁獲された主として中羽鰮にトマトソースを加えて調味した缶詰が世界的商品に成長したのである。発展の過程をみると、市産業課と水産試験場が有望な事業としてトマト・サージンの製造試験を実施し、その製品を南洋方面に携行して調査したのが市と道の嘱託で函館缶詰製造所主であった菅宮清吉である。調査の結果、品質、価格ともに欧米品と競争のできることが判明したので、6年には製造に着手、南洋方面に試売したところ嗜好にあって予期以上の好評を収めた。また函館缶詰所の製品はマニラで好評であった。この製品は魚類缶詰のなかでは最も安価で栄養価値にすぐれていたので、中流以下の家庭の惣菜として適しており、そのままサラダ、サンドウィッチに用いられた。そして東南アジアのほかフランス、イギリスと広く各国に販売されるようになった。輸出にあたった商社は地元では、三井物産のほか三菱商事、デンビー商会、浅野物産で、横浜、神戸、大阪の商社も取り扱った。製品の検査は海岸町の日本輸出鰮缶詰業水産組合函館検査所が実施した。
鰮缶詰に続いて、同じく鰮締粕から製造されたフィッシュミール(魚糧)をとりあげよう。昭和5年に森卯商店が米国へ試送の上、30トン輸出したのがはじまりといわれているが、一説によると、ロサンゼルス在住の中川政治が道産海産物の見本を宣伝販売していたところ、フィッシュミールの需要に着目して試験製造を申し入れてきたのが起因ともされている。主要生産国は米国、日本、ノルウェーで、日本は北海道と朝鮮(当時の植民地)が産地であった。主要消費国は米国とドイツで、のちにオランダ、英国にも輸出されるようになり、表2−75でみる通り輸出のピークは9年であった。 その頃には製品もそれまでのスクラップと称された天日乾燥による締粕を、乾燥機にかけて乾燥した上、さらに粉砕機械で微細に打ち砕いて粉末とした製品となっており、家畜、家禽、養魚の飼料として、また果実、蔬菜、桑などに使用すると甘味を増し色沢をよくし、収量も増加するなどの卓効があった。市内の工場は、上野商店、鈴木、山路、古閑の各粉末工場であった。また7年には合同工船(株)が切揚げ後の蟹工船を使用して噴火湾で試験操業したこともあり、同社の関係者はその後、豊浦に工場を建設している。12年には、小樽が本拠の坂本魚糧(株)が海岸町埋立地に新工場を建設し、進歩した機械装置で全道一の生産をあげたが、全国的な統制強化の機運があって、13年には日本油脂(株)がこの工場を買収して同社の函館魚糧工場とした。日本油脂(資本金5050万円)は函館のほか、森、八雲、豊浦、室蘭、釧路に工場をもつに至った。 締粕の副産物である魚油は古くから製造されたが、昭和9年に合同油脂(株)が長年要望されていた油脂タンク(1000トン)を海岸町に設置して、油脂工業発展の準備が整った。10年には北日本油脂工業(株)(社長平塚常次郎)が資本金100万円で創立され、11年春には海岸町に新工場を建設して、硬化油(石鹸、人造バター、製菓原料用)、重合油(石鹸製造用)、ウインターオイル(ペイント製造用)ほか各種加工品の生産が開始された。続いて12年12月には帝国火薬(株)函館工場の新設備が完成して硬化油が生産され、さらに同社はグリセリン工場の設備を完成して、軍需品関連施設の誕生をみた。帝国火薬(株)は13年には日本油脂(株)と合併したが、北日本油脂工業も日本油脂と合同しており、ともに日本油脂(株)函館油脂工場となっている。このほかに日本油脂工業(株)の工場が亀田にあった。昭和14年10月19日付の「函館新聞」によると、日本油脂の函館油脂工場は14年秋に閉鎖に決定したとある。理由は年に6000トン消費している石炭の配給不足(3600トンに減トン)とドイツへの輸出途絶である。同社は室蘭油脂工場が電気分解方式であるので、函館工場の生産額800トンより少ない500トンであっても室蘭工場を残すことにしたようである。昭和4年以来の輸出先はドイツ、英国、米国、オランダ、ノルウェー等であった。 なお、昭和14、15年には、漁業生産は燃料、漁網の調達難と漁雑夫の手不足に直面する。価格の騰貴した水産製造物に価格統制がはじまった。 製材・木製品工業 P467−P468
また、家具・建具の損害額は約24万円であったが、両者ともに工業組合を結成し、10年は118工場で約80万円の生産額(『函館産業大観』より引用)である。家具組合は12年に亀田村字港に共同加工場(工費6万3700円)を設立し、北鮮の羅津に出張所を設けて販路の拡大を図った。建具業界でも函館建具家具(株)を創立して地蔵町に販売所を設けて紹介販売に努力した。しかし、前掲の統計書によると、14、15年と生産額は低下している。木製品にはこのほか、挽物(木管、ブロック、木型、アバ、ゴロ)、木履素地が製造され広く道内、本州に向け販売された。表2−76で、製材業者などを含む木材取扱業者が移入、移出した石数を昭和4年より15年まで示した。移入量より移出量を差し引いてみると、4年から後の不況期には減少をたどるが、9年の大火で移入量の激増があった。13年以降の増加は統制経済下における仲継港の役割であろう。16年には函館合同木材(株)、函館合板(株)が創立される。17年には木材の生産・配給統制が進んで北海道地方木材(株)の函館支店が設立され、辻才次郎が支店長となった。森林所有者、木材業者はここに加入した。なお、軍需産業となった造船業者への木材挽立てに各製材業者があたっていた。 |
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