通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

3 主要企業の動向

函館船渠(株)

浅野セメント(株)北海道工場

大日本人造肥料(株)函館工場

函館製網船具(株)

函館水電(株)

北海道瓦斯(株)

大日本人造肥料(株)函館工場   P451−P453

表2−66 大日本人造肥料(株)函館工場の営業状況
年次
製品数量
製品価額
職工数
輸入数量
価額

大正10
11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5







7,932,405
11,510,231
28,893
29,537







1,038,666
1,214,841
1,140,409
962,575

65
61
56
58
11

51
55

43
ピクル
65,197
51,328
121,147
87,240
0
120,212
143,923
183,050
274,586
260,483

134,750
120,000
274,820
206,000
0
177,800
340,000
432,400
651,540
560,612
備考
大正13年8月、工場焼失。
大正14年8月、現在地に再興決定。昭和1年は休業。
各年の製品数量、価額、職工数は『北海道庁統計書』より作成。
原料の燐鉱石の輸入数量、価額は『函館税関外国貿易年報』より作成。
注)昭和4年以降の製品数量の単位はトン、輸入数量は100斤。
 大正10年から12年までの製造状況は不明であるが、函館税関に原料燐鉱石の函館港への直輸入に関する史料があるので、それによって考察する。
 前章の表1−36(→函館水電(株))に大正8年の輸入がゼロとなっているが、これは第1次世界大戦によって船ぐりがつかなかったためで、本州の港には大正7年の倍額以上の多量の燐鉱石の輸入があった。そのうち、クリスマス島産2千余トン、ラサ島産1万余トンが函館港へ回航される函館工場の原料となっている。翌9年は道内肥料界の好況が続くものと予想して、17万ピクル、61万円の直輸入があったが、道内の農業は雑穀、澱粉類の価額暴落に見舞われ、農家の購買力は減退し、そして地方集散地では現金取引に改まったこともあり、稲作施用の魚肥を除いて3割ないし4割がた施肥は減少した。したがって10年は前年より繰越の在庫豊富に加えて、燐酸肥料の相場低落のため、輸入は激減している。11年も状況はかわらなかったが12年には関東大震災があって神奈川および東京府下の肥料工場が罹災したため、函館工場は増産にせまられて原料輸入は激増したのである。13年も昨年同様の輸入増加が期待されたにも拘らず、8月漏電のため函館工場の主要部は焼失、輸入は減少した。14年は工場休業のため輸入はゼロ、昭和元年の秋、工場の一部が復旧し再び輸入開始、翌2年には工場全部の竣工をみたので輸入は活況を呈して、エジプトおよびクリスマス島よりの輸入合計は14万ピクル、34万円と増加、この後の輸入は新工場の稼動状況にあわせて増加している。
 ここで函館工場の焼失直後からクローズアップした工場移転問題にふれておこう。大正13年8月19日の「函館日日新聞」の記事を引用する。「昨日焼失せる肥料会社は其の損害約百二十万円の見積りなるが、六十万円の火災保険が附されてあり、而して此の肥料会社は過般来、小樽方面に移転の説が起りつゝありしも、財界不振の消極的方針から今日まで実現せざりしが、此の機会に於て移転実現の声が株主間に高まりつゝある、即ち同社の製品の最大の需要地は上川方面にして、原料輸送の航路運賃は函館も小樽も大差なく、製品の輸送は前記の如く小樽の方が経済であり、東北、奥羽方面に僅か取引を有するといふも上川方面に比しては問題でなく、かくて移転問題が持ち上れるものなるが、これに対し函館市当局ならびに商業会議所等は移転引留の運動を試みるらしいと」。

大正15年に一部復興した大日本人造肥料会社の函館工場(『写真帳函館』大正15年刊)
 なお、『大日本人造肥料(株)五十年史』(昭和11年)によると、「工場の再建に就ては室蘭、釧路、小樽等への移転説も相当有力であったが、地元函館市の懇望及諸般の事情に鑑み、十四年八月現在の位置に再興の議決定し…」とあり、工場焼失の前年に、小樽に出張所を開設して販売業務を函館から移したにも拘らず、新式の工場設計で従来より5割増の製造能力をもつ工場が昭和2年3月に竣工した。
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