通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 3 主要企業の動向 函館製網船具(株) |
函館製網船具(株) P453−P455
「我会社が、…他の同業会社に比較して暫然頭角を現す…所以のものは、漁網に漁具に何れも容易に簡単に之を供給し得る組織となつてゐるからである。漁網の如きは漁獲物に依り相違する。網スキから染揚げ梱包に至る迄、我社の手一つで行ひ、漁場に到着せば直に投網さるゝ運びとなつてゐるので、需要家の手を省く多大の便利があり、且つ大量生産に依り精良品を安価に需要家へ供給してゐる」とある通り、撚糸は亀田工場、漁網は松風工場で行なっているほか、大正十二年には染網と漁網仕立工場を新川町に新築して、「染と仕立はウロコ」との声価を得たので、この工場を翌年には増設している。また、新鋭のサング式編網機を四台据付、亀田工場内に漁網製作工場を新築している。 なお亀田工場内には、鉄工部、木工部をおいて特許撚糸機、編網機の製作をしていた。このほか新潟県の高浜町に越後工場があり、亀田村の函館刑務所構内の製造所を亀田第2工場としていた。また札幌刑務所構内にも札幌工場があり、仙台市、静岡市、浜松市の専属工場には麻糸製作を請負はしていた。支店は小樽市、東京市、青森市にあり、札幌市に大正13年に設置した支店は成績不良で15年には廃止している。函館の船具・機械部は船具および水産機械の販売をしていた。 以上のように各地に支店、工場をおいて水産王国といわれた函館の代表的企業に成長したのであるが、もちろん様々の経営上の問題を克服してのことである。この頃の最大の課題は原料の仕入であった。原料紡績糸の高低、変動が頻繁で、製造準備時期と製造漁網の販売時期とでの価格のギャップが大きく販売に苦労することがあった。ウロコでは綿糸はもとよりであるが、マニラ麻製品であるトワイン糸なども最安値時期に多量の買付をして対応している。 次に需要側の漁業においては、露領漁業でも鱒の大不漁(大正12年)という如き豊凶があり、道内、樺太の鰊漁業などにも再三の不漁があり、同業者との激しい競争のなかで、販売額の減少、製品価格の低落はさけられなかった。また露領漁業には日ソ間の協約不調のこともあり、国内には昭和4年の宇田事件の如き漁業権問題がおきたが、ウロコは宇田側の注文は謝絶して日魯漁業(株)に納品してきりぬけ、さらにはそれまで謝絶したこともあるソ連側の注文に対して、ソ連国営漁場の5か年計画に基づく大拡張(昭和4年の函館港よりの輸出額131万円、5年は207万円)には受注している。カムチャツカ東西両岸の蟹工船の需要もふえて、昭和4年の撚糸生産額は224万余円と記録的な金額となっている。以上の通り昭和不況の時期でも函館には特殊的需要があったわけであるが、小樽支店では主要取引先が海運・漁業・木材業者であったため、多額の貸倒れ、手持ち商品の値下がりで打撃は大きかった。概して支店の成績はこの時期では上がっていない。 なお、市内の家内工業への網仕事の発注を上述の「函館の商工紹介」から引用する。 市内に於ける網スキ即ち家庭工業に対して、我製網船具会社より支払ふ賃金は一箇月平均二万円を降らない。更に蟹工船の網スキ賃金として全市の家庭工業に落ちる金額は二十万円に達してゐる |
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