通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 休戦調停から新たな動きへ |
休戦調停から新たな動きへ P268−P270 年末が迫り暗闇のままでは新年を迎えることが出来ないとあって、函館商工連合会が斡旋に動き出した。12月17日、函館商工連合会会長斎藤栄三郎と副会長谷徳太郎は、北海道庁長官、札幌逓信局長をはじめ、市長、水電本社首脳らと個別に会談し、24日夜半、ようやく「報償契約の精神を尊重して相互誠意を以て買収交渉を開始すること、昭和9年3月末日までを休戦期間とすること」を要旨とする休戦の覚書に仮調印することができた。皇太子誕生(今上天皇)による奉祝接線点灯もあり、函館市は断線解除のままで明るい新年を迎えることができた。この間函館水電では、太刀川善吉取締役が退任、江別選出の衆議院議員岡田伊太郎が取締役になって函館出身の重役は1人もいなくなった。29日、坂本市長は、新取締約役の岡田と会談したが、覚書調印には至らず抗争は年を越すこととなった。新年を迎え、函館水電は、葛西支配人を解任(15日)し、新たに岩橋武之助(北海道電灯(株)の秋田支店長)を函館営業所支配人に据え、16日、商工連合会の斉藤会長に先の覚書の解消を通達した。商工連合会は事態を静観し調停に立たない旨を発表、20日には、2000戸の再断線が決行された。断線はその後29日の第6次まで続けられ、約5000戸、約3万灯に及んだという。21日には第7回市民大会が開催され、「市民は益々結束し初志貫徹を期す」との宣言を発した。会社の断線戦術もエスカレートするばかりで、2月9日には衛生保安上から別扱いとなっていた料金不払いの病院も断線されるに至った。 この頃水電買収問題の閉塞状況はその極に達していた。上京中の山崎札幌逓信局長の斡旋を期待する「市も会社も疲れ果てて争議解決の気運至る/近く来函する山崎局長、市長との会見に期待」という記事の見出しが、その状況をよく表現していたといえる(2月17日付「函日」)。 その山崎局長の要請を受け、9年3月4日、坂本市長、高橋文五郎議長、坂本、泉期成同盟会正副会長が出札、市と函館水電は局長の調停を受け入れ和解の覚書に調印した。ようやく次の展開へ向かうこととなったのである。「交渉期間を暫定して売買交渉を再開の為め左記条件により紛争を休止する」という「覚書」の条件は次のようなものであった。 一 大正三年一月十九日付締結に係る契約の効力に関しては市及会社間に見解の相違あり目下訴訟中に付之に触れざるも右契約の精神を尊重して直ちに売買交渉を再開すること。 多くの未解決問題を残したままの和解であったが、5日から接線が開始され、11日には4900余戸の接線が完了して函館の街に明かりがもどって来た。期成同盟会は、坂本市長が山崎局長の調停案を受入れたことを承認し、翌3月6日解散を決定した。膺懲連盟も7日に期成同盟会に同調する声明書を発表して解散した。だが社会大衆党は6日、調停案が料金値下げ問題を無視していることに対して不満を表明している。 先の「覚書」中最重要課題であった買収交渉再開については23日市長が上京して再会予定、滞納電気料金支払方法については山崎札幌逓信局長の裁定待ちとなり、裁定の発表が22日の予定となっていた。ところが、3月21日、午後6時53分頃住吉町の民家から発生した火事は強風に煽られ、翌日の午前6時に延焼が止まるまでに、市街地の中心部がほとんど灰燼に帰す大火災となった。函館市役所も焼失し、函館水電も多大の被害を被った。また期成同盟会副会長泉泰三も亡くなっている。函館水電は直ちに復旧に取り掛かり、23日には焼け残り地区に灯りが灯った。市も応急対策に奔走、4月8日には函館市復興会(会長佐上北海道庁長官、理事長坂本市長)を創立して復興に取り組んだ。 |
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