通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 独立後の商業学校 |
独立後の商業学校 P210−P212 関係者の宿願が達成され、「独立」を実現した函館商業学校では、以後各方面にわたって目覚ましい活動、実践が展開されていった。『函商百年史』も指摘するように、清新の気風のみなぎる学窓で、「士魂商才」の校是のもとに、教授はもちろん、各種行事、スポーツ等々が意欲的に展開され、意気大いに揚がる教育の場が出現している。まず、商業専修科時代には低迷していた運動などが学校関係者の奨励で活発になったといわれる。多彩な種目を盛り込んだ運動会、夏季の水泳練習、拡充された修学旅行等々、新生函館商業を象徴するかのようである。明治20年頃には、全国の中等学校で、「生徒行軍」の呼称で、修学のための徒歩旅行が実施されている(明治20年「官報」第1167、1168号)。当初、徒歩の行軍として実施された旅行が、後には汽車、汽船などによる旅行に変化し、現在のそれに次第に近付いていくのである。函館商業学校独立後の行軍にも、原形が残されているといえる。第1軍から第4軍まで、「軍」という編成を採っているのがそれであるといえよう。しかもそのうえ、新しい装いをも備えている。それは、目的地と旅行の方法にみられるものである。第1軍東京方面、第2軍仙台・松島のように、元々の徒歩旅行から、遠距離の、乗り物利用の旅行へと変化しているからである。ここには、元々の形(行軍)を、グループの編成の中に残しつつ、本来の徒歩旅行ではない、乗り物を利用する、今日の修学旅行につながる旅行が試みられていたといえる。道内最古の歴史を反映しつつ、新しい試みを積極的に取り入れていく、函館商業学校の姿を、見事に映し出している行事形態といえよう。 開港場函館にふさわしく、国際性を備えた目標を掲げ、それに必須の教育内容を整え、時代の要請に応える商業人の育成を意図していたことが、明治32年の「函館商業学校規則」から知られる。それは、創立以来の伝統を受け継いだ語学教育重視の課程表によく現れているといわれる。函館商業学校復活当初の課程表でも、英語の時間数は27パーセントの高い比率を占め、さらに、「商業教育との関連においても、簿記のなかに英文記帳を採り入れ、また商事要項には内外取引を、商業実践には内外国(創立期には内国商業)を、地歴にも内外国を導入して、商業教育の視点を函館経済界とか道内などに矮小化することなく、全国的あるいは国際的な見地から開港場函館の果たすべき役割を見据えて、海外貿易の発達に寄与するはもちろんのこと、広く国際感覚を身につけた商業人を育成するために、このような大目標を掲げたのである」といわれている。課程表は、「今日に劣らないほど商業取引の国際化を重視していることを如実に物語っていると言えようか」ともいわれている(北海道函館商業高等学校『函商百年史』)。
実業界のみならず広く各界に、傑出した人材を送り出す函館商業学校の伝統は、学校復活後の明治末期にも、すでに明らかである。石川啄木に関係の深い文芸結社「首蓿社」に、社友、投稿者としてかかわった人々の中にも、多数の函館商業学校卒業生があったといわれるが、その素地は、函館商業学校における文芸活動にあったといわれる。同校の教育の豊かな成果を物語る事実の1つといえよう。 |
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