通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因 |
造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因 P125−P127
明治から大正期にかけて、硫黄鉱業が輸出産業として脚光を浴びた。本道は本邦有数の硫黄生産地で18鉱山あったが、尻岸内の古武井鉱山は有名である。鉱石は山元で精練され塊状硫黄とするが、これには焼取法が用いられた。焼取法は鋳物製の精練釜(0.6トン/個、以下硫黄釜という)を10〜14枚かまどの上に並べて1基としたが小さい鉱山でも2〜3基が普通であった。釜の寿命は硫化鉄の付着のため、1年位であったからその需要量は莫大であった。古武井鉱山は明治34年に山県勇三郎が本格的に操業を始め、44年からは三井鉱山の経営となったが、硫黄産出量では本道の60パーセントを占めていた。硫黄釜の需要に応じて、函館の鋳鉄工場は多忙であった。 第1次大戦ではドイツの潜水艦に撃沈される船舶が多く、この為に船舶の需要は急増した。これを受けてわが国の造船業界は未曽有の活況を呈し、函館でも大正3年から8年にかけて図1−2に示すように、造船所の修繕、新造工事が急増した。また、舶用汽缶汽機、船用金物の製造で鉄工場は多忙を極め、図1−2のように工場数の増加をもたらした。
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