通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||||||||||||||||||||||||||||
第1章 露両漁業基地の幕開け 拡散する道内貿易港 |
拡散する道内貿易港 P83−P84 明治32年に小樽、室蘭、釧路が全面的な貿易港となり北海道の貿易が函館一辺倒から拡散傾向となり、さらに39年に青森、42年には樺太の大泊、翌43年に根室と相次いで開港され、その傾向は一層強まっていく。こうしたことは函館の貿易構造にも大きな変化を与えることになった。各港別の輸出入額は表1−24のとおりであるが、輸出は小樽が首位を占め、輸入は大正前期は函館が首位を占めているが、後半に入ると小樽が函館にとってかわった。小樽は道内の鉄道網を生かした立地を有力な材料として農産物や林産物の集散地として成長して、これらの一大輸出港となった。ただし木材輸出はヨーロッパを最大市場としていたために第1次世界大戦勃発により大打撃を蒙った。特にイギリス向けのインチ材が船舶不足により輸出が激減した。函館税関管内の輸出総額に占める林産物の割合が3年には50%であったものが、6年には10%と激減している。このほかに石炭、工業製品の輸出もみられる。輸入は生産材、消費材である。大正7年を例とすれば対イギリスの輸出では小樽が500万円、函館はその10分の1と比較にならない。小樽は豆類、澱粉の占める金額が大きい。これは道内の農業生産の進展と一体のものであり、農業生産品の集散地の地位を不動のものとしていた。しかし函館は、この期間を通じて海産物貿易港としての位置を譲ってはいない。室蘭は明治41・42年に400万円台の輸入をみるが、これは日本製鋼所、王子製紙などの建設に係わる機械・鉄材等であり、これ以外には木材・板・石炭の積出港としての特徴を持ち、輸入品は製鉄産業を基盤としたところから鉄鉱石が大部分である。釧路は管内随一の鉄道枕木の積出港、根室は中国向けの昆布輸出港として成長してきており、函館のそれまでの独占体制はかげりをみせはじめる。青森はこの時期の輸出には特記すべきものはみられないが、輸入は前述したとおり東北・北海道における最大の石油基地となった関係から原油及び石油の輸入が圧倒的に多かった。
|
|||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |