通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 中国市場と函館の貿易 |
中国市場と函館の貿易 P73−P77 日露戦争後、日本の外国貿易は近代紡績業の確立により綿関連の繊維製品を中心とした輸出が急増し、また雑貨類の輸出も伸び、さらに原材料の輸入急増が顕著となる。市場構成はアジアの比重が強まり、戦前に2、30%であった輸出入が明治40年には40%台に伸び、さらに大正期に入ると50%を占めるようになった。アジア域内貿易の割合が増大していくが、またアメリカの比重が3、40%を占めて一貫して高いのは生糸輸出によるものであった。大正3年に第1次世界大戦が勃発すると翌4年から輸出が圧倒的に増加し、とりわけヨーロッパ方面への軍需品や、アジア・アフリカ方面へ工業製品の輸出が増えた。大戦前の日本は多額の債務を抱えていたが、この輸出急増によって国際収支が黒字化して大幅な債権国に転じたほどであった。その結果、国内的には物価騰貴をもたらし、一方では大戦好況による工業化が一層本格化し、新企業の勃興も顕著となった。
他方、この時期の輸入は散発的であったが、そのなかで石油輸入は明治末に青森に石油基地が設けられてからは急激に増えている。戦後の経済界の勃興の余波が道内の各地域にもおよび、会社の新設や既存会社の設備投資の拡大による建設材料の一時的な増大といった現象がみられたほか、函館の大日本肥料会社(現日産化学(株))をはじめ新設会社の創業に伴い銑鉄や燐鉱石といった原料の輸入が行われている。このほかに明治41年には北海道セメント(株)が施設を拡張したために機械類や鉄材の輸入がみられた。第1次大戦は輸入にも大きな影響を与え、設備投資と在庫投資の激増、産業・生産活動の活発化によって鉄鉱石、銑鉄、ニッケル、石炭などが激増し、これらのブームによって輸出入物価が高騰した。 こうした背景のなか、函館における外国貿易の推移を『函館税関貿易年報』によって通観してみよう。函館は千島、樺太、北海道の東沿岸部や寿都以南を商権とし、小樽の貿易港としての急激な成長があったにもかかわらず、北海道における海産物集散地の要地でありつづけ、それに依拠した海産物貿易港としての価値は依然として有していた。それはとりわけ明治40年に締結された日露漁業条約により飛躍的に発展した露漁漁業の基地としての機能を函館が持っていたからにほかならない。このことは函館の貿易構造に一定の影響を与えていった。すなわち函館へ集荷された露領産塩鱒が中国市場へと再輸出されるようになったからである。塩鱒の輸出は大倉組によって開始され、また三井もこの方面への貿易に介入し、その結果、函館からの輸出量が増加して主要貿易品の一角を占めるようになり、大正初期には海産物貿易では横浜や神戸と拮抗するまでになった。こうした特性から、函館の貿易は海産物主体であり、連年、昆布、鯣、塩鱒、貝柱、海参といった海産物類が輸出総額の70〜80パーセントを占めるといった高い比率を示している。これにつぐのが漁網、工業製品であった。日露戦争後から大正期前半にかけての函館の輸出入額は表1−19のとおりである。輸出額は明治末期まで200万円前後と横這い傾向で推移するが、大正期に入ると増加傾向が著しくなる。大正元年は前年におきた辛亥革命により中華民国政府が樹立し、小康状能によって海産物の需要が復興したこと、硫黄の生産増に比例して輸出量も伸びたこと、さらにイギリス向けの鮭缶詰の増加(缶詰輸出は明治43年から行われるが、おもに函館のデンビー商会が担当)などから好調を示した。輸入に関しては石油輸入が復したことにより増加した。翌2年では輸出額が前年比で100万円増加するが、その要因は本道産昆布、鯣などの主要海産物の産額増加、および上海方面の農産物豊作により需要が増進したこと(「戦後ニ於ケル函館区商工業ノ現況」北海道大学附属図書館蔵)や露領産塩鱒の豊漁による対中国貿易の盛況、日本郵船が函館・上海間に直航定期航路を開始し、輸送手段が強化されたことなどである。輸入は石油が皆無となったが、函館の肥料製造会社の事業拡張に伴って燐鉱石の輸入が急増し、また従来は横浜港で輸入手続されていた外国産米が、この年から函館に直輸入され、私設保税倉庫が設置されたことや凶作による新たな需要喚起などがあった。函館の主要輸出品の1つである硫黄輸出は北海道全体では著しく増加したが、小樽や室蘭からの輸出増により函館は前年比と大差がなかった。
大正4年は日本の21か条の要求により中国市場で日貨排斥の動きが起きたほか銀貨の崩落、また函館での華僑の海産商同業組合の非加入問題、船腹不足といった不利な材料にもかかわらず輸出額は前年並みを維持し、翌5年は鮭缶詰の輸出が函館港を経ずに露領の各産地からウラジオストクに直送、シベリア鉄道でヨーロッパに輸送されたことで皆無に近い状能となったが、イギリスへの豌豆やアメリカへの隠元豆などの農産物品が増加し、総額では前年並みとなった。 大正6年になると輸出額は600万円台に突入、海産物では鯣、乾鱈、塩鱒、農産物では隠元豆が増え、工産物としてイギリスむけの澱粉が急増し、7年はさらに800万円となり、この期間のピークを記録した。増加分の大半は海産物であったが、そのうち連年第2位を占めていた鯣が半減したものの首位の昆布が倍増し、中国国内の購買力の増加と歩調を合わせて伸びたほか塩鱒、貝柱、海参も増加した。以上のように大正期に入り函館は対中貿易の伸びにより飛躍的に増加するが、それを支えたのが塩鱒の輸出であった。従来の昆布中心から昆布・塩鱒を主要品とする輸出港へと転換するのである。 明治末年に大倉組が塩鱒輸出に取り組んだことが端緒となり日本郵船が呼応して季節的な上海直航便を開設した。日本郵船は地元海産商へ呼びかけて大正3年に中国視察団を結成したが、彼ら海産商は中国視察によって塩鱒などの新商品の輸出を強化していったのである。
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