通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
5 高度経済成長期における函館工業界の実情

造船・北洋関連産業の不振

失業多発地帯という環境

海運市況の復興と造船ブーム

水産食品工業の伸展

臨海工業地帯の造成

公害問題と企業の対応

北洋関連企業の消長

転換期を迎えた工業界

函館を支える食料品製造業

落ち込む輸送機械工業

一般機械工業の動向

工業構造の転換による明暗

落ち込む輸送機械工業   P460−P463

 高度経済成長期に大規模な設備投資を実行した函館ドックは、厳しい現実に直面することになった。その顛末を同社百年史資料室提供資料によって述べておきたい。昭和48年11月から新規受注は途絶した。49年度には既発注の新造船の船型変更、納期遅延といった契約変更があらわれだし、50年度には、30万トンタンカー8隻の受注分のうち5隻がキャンセルとなった。結局30万トンの建造は3隻で終わった。51年度では、大型船の発注は皆無であったが、それでも手持工事量の消化で当面はフル生産であり、資金繰りにも余裕があって、市内では水産加工業とならんで景気の沈滞を下支えしている状況であった。なお、地元で規模の大きくなった下請企業数は1次下請が約100社、2次下請を含めると150から160社といわれていた(第7編コラム21参照)。昭和51年度の売上高は戦後最高の545億円となったものの、すでに工事量の減少と人件費の増嵩、さらには為替差損があって約3億円の損失となっている。翌52年度は最悪の経営状態に直面する。受注条件の変化と工事量の減少、為替差損の発生で売上高は390億円であったが、損失は138億円となった。52年末までの希望退職者は504名で、従業員数は3000人を下回った。経営悪化の責任を取って経営陣の交替があり、日本鋼管、富士銀行、丸紅の3社から代表権者が選出されて、この年に次のような再建計画が策定された。(1)過剰設備の売却、(2)人員規模の縮小、(3)労働条件の見直し、(4)借入金元利(約600億円)の棚上げ、である。
 翌53年度は退職金の支払い、新造船部門の為替差損・引当金設定、工事採算の悪化、生産規模縮小による在庫調整、設備の一部廃却、クレーム船・キャンセル船の評価損のため、実に300億円の売上高を上回る386億円の巨大な損失となった。国では特定不況産業安定臨時措置法の制定があり、構造不況業種である造船業者の救済と再編成を進めた。
 そして、54年に特定船舶製造業安定事業協会が150億円(ドックの希望価額は188億円)で、大型船建造設備の買い上げが実施された。これは退職金の原資であって、労働組合の合意のもと、さきの第1次希望退職者と第2次希望者、合わせて1440名が退職した。
 一方、協調融資による金融機関の債務約600億円の棚上げが承認され、ようやく縮小均衡体制の基礎ができて黒字体質転換の見通しはついたものの、54年度の決算は設備売却の損失、希望退職者の退職金、引渡遅延船の評価損失などで55億円の損失となった。したがって、55年3月末の総資産額355億円に対して、負債額は904億円であり、債務超過額が約550億円に達するに及んで、大正10年以来の株式上場は廃止となった。
 その後55年度には受注高はやや回復して、わずかではあるが5年ぶりに黒字が計上され、続く56、57年度と3か年は黒字であった。とくに57年度は新造船部門では3万1000トンのバラ積運搬船7隻を受注し、修繕船部門では青函連絡船の改造工事があった。強化方針を打ち出していた陸上部門では本州四国連絡橋の受注工事が完成し、国内では一流の橋梁メーカーと認められた。しかし、58年度は造船業界の一時的回復があったものの、過剰船腹、大量係船状態は解消せず、さらに韓国、台湾などの低船価攻勢が激化の一途をたどって、この期は約5億円の損失となった。59年度も大幅の損失が見込まれる情勢のもとで、日本鋼管、富士銀行、丸紅の3社による再建は断念された。
 次に函館ドックの経営破綻が、地域の下請工場や関連中小企業にどんな影響を及ぼしたかをみておこう。函館ドックから下請工場への発注は協同組合を通じておこなわれていた。3協同組合(協同組合函館ドック生産協力会、函館ドック事業協同組合、函館鉄工造機協同組合)があって、企業数・従業員数は昭和53年の78社・2260人が61年には47社・995人に減少した(北海道『特定地域中小企業振興計画−函館地域−』)。そして、55年には大型下請工場である田辺鉄工所と函館工機が倒産した。函館ドックの下請工場を含む関連中小企業数は、昭和53年には441社あったものが、同61年には147社と激減し、これに対する発注額も65億円から30億円へと半減した(表2−28)。このように、函館ドック従業員の大幅減少と合わせて、地域内の関連中小企業に与えた打撃は大きく、函館市では関係各機関との連携を図りつつ、各種の施策を講じた。そのおもなものは、道内漁船受注キャラバン隊の派遣、東北・関東地方に下請受注の要請活動、各種公共事業(河川防護柵や学校プールなど)の実施などであった(同前)。このような状況下で、中小造船所も苦戦を強いられたが、アルミ船の建造で実績を伸ばし、3000トンの修繕乾ドックを完成させて(昭和44年)、その後順調な経営を続ける函東工業のような企業もある(『函東工業株式会社会社概況』)。
表2−28 函館ドック下請・関連中小企業への影響
 
昭和53
54
55
56
57
58
59
60
61
企業数(社)
441
395
388
401
392
300
250
172
147
発注額(百万円)
6,465
5,212
3,616
4,622
4,907
5,580
3,178
3,262
2,959
『特定地域中小企業振興計画−函館地域−』より作成
 一方函館ドックは59年末には営業の全部を株式会社来島どつく傘下の「函館どつく株式会社」に譲渡して、設備・施設のリース料を営業収益とする新再建方式が採られた。再建の順序と内容は、大幅な人員規模の縮小を実施したうえで、函館ドック(旧社)は所有する不動産・船台・ドックなどの工場財産を函館どつく(新社)に賃貸し、従業員は新社が継承する。旧社は賃貸料をもって債務の償還にあてるというものであった。新社の資本金は10億円、来島どつく社長坪内寿夫が新社である函館どつくの社長に就任した。希望退職者は645名にもぼり約1000名の従業員数となった。新造船(バラ積運搬船)は来島グループよりの繰回し発注があったが、60年からの円高不況で造船業界は深刻な構造不況が続き、新社の売上高は毎年減少して200億円を大きく下回り赤字続きであった。親会社の来島グループも61年には苦境に直面して、函館どつくは63に来島グループから離脱して自力再建の途をたどることとなった。しかし、旧社には約700億円の固定負債が残っており、新社もまた黒字体質の実現が容易でない状況での自力再建であった。
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