通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

2 日ソ漁業条約成立後の日ソ漁業関係

日ソ漁業条約の成立

国営漁区問題

個人漁業家の進出

ソ連漁業家と函館

ソビエト通商代表部函館支部

ソ連漁場の日本人労務者

日本人労務者の雇用中止

漁撈長相互会の反対運動

日本人労務者の雇用中止   P594−P596

 翌4年、5年は、ソ連企業の経営漁区と蟹工船の大幅な増加に伴い、雇用される日本人労務者も8493人から9545人に急増した。しかし、6年以降は、ソ連側経営漁区が増加したにも拘らず、日本人労務者は減少し、昭和8年には日本人労務者の雇用は中止された(表2−123・124)。


プチーチ島から帰還した労働者
(昭和 7年7月23日付「」函新)

 これはソ連極東漁業の自国化が実現して、完全にロシア人の手で営まれるようになったことを示すものであった。ただこのような自国化の進展は、日本側の予想を越えるテンポで進んだようである。国営企業の労働者は、昭和4年まで、ほぼ半数は日本人労働者で占められていた。だが昭和5年には、ロシア人が大幅に増加したことによって日本人労務者の地位は相対的に低下し、その後は急速に削減され、4年後の昭和8年には、漁業労働者は完全にロシア人労働者に切り替えられたのである(表2−124)。
 このような日本人漁夫の雇用中止の理由として、前年カムチャツカ西海岸プチーチ島で発生した日本人労働者の争議行為、ソ連側の赤化宣伝を警戒する日本側取締当局の処置、日本人漁夫の蟹工船出漁直前の雇用契約破棄などから生じた日本人漁夫に対する不信感があげられていた。
 しかし、もともとソ連国営企業が日本人漁夫を雇用したのは、漁業技術の移転と漁業労働力の自給が可能になるまでの一時的便法であったので、労働力の国内調達が可能になり、漁業の自国化が達成された段階では、日本人労務者の雇用は中止されたのである。
 ともあれ、ソ連漁場における日本人漁夫の雇用が中止されたことは、それまでソ連漁場に出稼ぎを続けてきた労務者には死活問題で、多数の労務者を送り出す函館市にとっても重大な社会問題になった。
表2−123 ソ連漁業に就労する日本人漁夫数と租借漁区・工船数
年度
労働者数
漁区数
蟹工船数

昭和3
4
5
6
7
8

4,388
8,493
9,545
不明
1,800
0

42
162
373
301
301
352

2
4
10
9
9
7
昭和8年3月14日付「日露通信」(日露貿易通信社)より
  表2−124 ソ連国営企業の国籍別労働者数
               単位:人
年度
ロシア人
日本人(%)
合 計
昭和3
4
5
6
7
8
1,418
2,901
6,242
9,726
11,604
16,707
1,599(52)
2,788(49)
2,980(32)
1,005(9)
560(4)
0(0)
3,017
5,689
9,222
10,731
12,164
16,707
『堪察加経済事情』(露領水産組合訳編、昭和12年)より
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