通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

2 日ソ漁業条約成立後の日ソ漁業関係

日ソ漁業条約の成立

国営漁区問題

個人漁業家の進出

ソ連漁業家と函館

ソビエト通商代表部函館支部

ソ連漁場の日本人労務者

日本人労務者の雇用中止

漁撈長相互会の反対運動

国営漁区問題   P582−P584

 このように、新しい漁業条約においても、漁区の取得は競売を原則とすることが確認されたわけだが、この競売によらない国営企業漁区の取り扱いを巡って、両国の漁業関係はしばしば混乱した。まず最終段階で妥結した国営漁区の取り決めをみると、次のようなことが合意されていた。

一、ソ連邦の国営企業は直接的、あるいは間接的にも漁区の競売に参加しない。また国営企業は個人企業(私人)が借り受けた漁区を経営しない。
二、ソ連邦のツェントロ・ソユーズ(コオペラチヴの中央機関)は、条約有効期間中条約水面で漁業を経営しない。従って漁区の競売に参加しない。
三、ソ連邦の各種コオペラチヴは競売に参加できるが、取得できる漁区に限度を設け、競売参加については協議する。
四、ソ連邦国営企業は競売に参加しない代わりに各種類の漁区(例えば鮭鱒漁区)の二割に相当する漁区を競売によらずに取得できる。期間は一般漁区と同様最長五年間とする。国営企業の漁区の選定について、日本側の懸念を考慮して、最終議定書には、日本国民が有する正当な希望及び条約締結交渉時(一九二七年)に国営企業が経営する漁区が 全漁区の百分の二十を越えず、日本国民の経営漁区が百分の八十を越えている事実を考慮する。
 かつ決定の際は日本政府と協議する。
                                                    (『日露年鑑』昭和5年版)

 これらの合意内容をみる限り、日本側の懸念は一応解消されたかにみられていた。だが、実際に国営漁区を選定する段階では、合意事項の解釈で齟齬を生じて紛糾した。
 漁業条約成立直後の昭和3年12月、ハバロフスクの極東漁業庁は、昭和4年の出漁条件を露領水産組合に提示してきた。この中にソ連国営企業の新漁区として鮭鱒51か所、鰊12か所、蟹9か所、合計72か所の漁区が入っていた。
 ソ連側の通告してきた国営漁区数は、従来の23か所の3倍に当たり、このようなソ連側の一方的通告は、日本側からみれば条約違反とされた。だが、ソ連側の見解によれば、総漁獲高の2割までの漁区の取得は日本政府に通告するのみでよく、2割を越す場合に日本政府の承認が必要という解釈をとっていた。
 国営要望の72か所の漁区には、期限切れで更新期を迎えていた日本人漁区30か所が含まれており、その中には日魯漁業の優良漁区18か所が入っていた。日本政府の抗議によって、ソ連側は、12か所の個人経営漁区の返還を認めたが、日魯の18漁区(鮭鱒漁区15、蟹漁区3)の返還要求には応じなかった。
 こうしたソ連国営漁区の急激な拡張は、当時の社会主義経済建設5か年計画に基づいたもので、その下につくられた極東国営漁業建設10年計画には、国営漁業の発展策の1つに「生魚(主トシテ紅鮭)ノ日本工場ヘノ売却ヨリ所属工場ニ於ケル之カ缶詰製造ニ部分的ニ移リ以テ極東「ソヴイエト」水域ニ於ケル日本缶詰業ヲ暫時減縮セシムルコト」が挙げられている(外務省通商局訳「ソヴェート連邦国営漁業ノ根本的建設十年計画」昭和5年)。
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