通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

2 日ソ漁業条約成立後の日ソ漁業関係

日ソ漁業条約の成立

国営漁区問題

個人漁業家の進出

ソ連漁業家と函館

ソビエト通商代表部函館支部

ソ連漁場の日本人労務者

日本人労務者の雇用中止

漁撈長相互会の反対運動

ソ連漁業家と函館   P586−P590

 ロシア漁業家と函館の関係は、明治末期以降北洋漁業を媒介に、深く結び付いてきた(本節6参照)。この関係はソ連の時代に入っても踏襲された。表(→個人漁業家の進出)でみるように、国営企業カムチャツカ株式会社およびダリルイボプロドクト、リューリ、ルビンシテインなどの個人・一般企業は、函館に支店ないしは出張所を設けて漁業資金の調達、漁業用品の買い付け、漁夫の募集を行っていた。
 例えば、大正14年11月13日の「函館毎日新聞」には次のような記事がある。「露人漁業家にして函館に根拠を据え函館金融市場より資金の供給を受けたものの分は的確な調査は不可能だがオカロ、ダリモレプルダクトが日魯漁業会社の手を経て拓銀より五十万円の資金融通を受けたると其他個人露領漁業家の市内各方面より供給された資金高は約十万円見当と見られている而して露漁業家当港より露領方面に送りこんだ物資即ち仕込み品価は百三十四万五千五百十四円で食塩の再輸出額は二千三百二十円合計百三十四万七千八百三十四円であるが、之に対し漁獲物の輸入品価は四百四十三万九千八百七十六円持戻品価十一万四千四百七十八円合計四百五十五万四千三百五十四円で当港を中心として露領漁業を経営し居る露領漁業家は二会社及び個人漁業左記二十五名であった」とあり、ツエントロ・ソユーズ、オカロ、ダリモレプロドクト、リューリなどの漁業企業と漁業家が列記されている。

リューリ商会の広告(『日露年鑑』昭和4年版)
 この頃ソ連漁業企業が物資を購入する場合、ロシア極東の通商代表機関である極東国営貿易局(略称ダリゴストルグ)、あるいは輸出入業務の権限をもつツェントロ・ソユーズ(全露消費組合連合会)の函館出張所が窓口になり、購入代金は、函館駐在のダリゴストルグ代表名義の約束手形で支払われていた。しかし、函館商人の中には、ダリゴストルグ代表が振り出す手形に信用性の不安を抱き、ソ連の漁業家との取引に躊躇するものもいたという。
 この点について、大正14年7月26日付け「函新新聞」には次のような記事がある。函館商人は、「露領漁業に対する理解は有するとしても露国の財政に不安を抱く為函館人士も二の足を踏まねばならない状態」にある。加えて「取引当事者であるツエントルサユーズ、ダリゴストルグの職員は政府の要員ではないが、両機関はともに労農政府の一機関である」といったソ連当局者の曖昧な発言が、一層不安を助長している。函館商人は、最後に巨額の資金提供に踏み切っているが、決め手になったのは、「露国の国営漁区が何れも優良漁区で漁獲に不安がないこと、しかも漁獲物の大部分を函館で処分することが決められたこと」であり、「日魯漁業では漁獲物の一部を日魯が処分し、銀行団では、露国側が市内商人に振り出した手形を割り引く場合夫々安全策を講ずるなど、豊漁でさえあれば回収困難等の不安は全くあるまいと信じられていた」。
 つまり、ソ連側との取引には、漁獲物を担保に代金回収の保全を図る、いわゆる仕込金融の方法が採られていたのである。
 しかし、ソ連側では、仕込金融を誤解していたものか、しばしば紛争が起きていた。一般の仕込金融では、漁業者は仕込主に対して、漁期終了後、漁獲物を引き渡すことが義務付けられていた。ところが、ソ連の漁業家は、漁獲物を他に転売しようとしたのである。当時の新聞には次のような記事がある。

 極東水産会社(ダリモラ)は、本年よりカムサツカ・オコックに於ける露国々営漁場を経営し、之が事業の計画を樹てたる当市所在のツエントロソユーズは、本年出漁季に際し、資金十五万円を小熊商店より融通を受け、所謂青田売をなし、出漁当時の相場にて借受け金額に相当する漁獲物の処分を小熊商店に委ねることに契約したが、図らずも本年は稀有の大不漁なりしため、荷不足の関係上目下漁獲物は天井知らずの高値を出現し、尚漸騰歩調を辿り居る所より、ツエントロソユーズにては利益を獲んがために、曩に小熊商店との間に結びたる契約を破り、山カ加賀商店に高値にて漁獲物を売込む契約をなし、一昨五日当港に帰還したカムサツカに於ける極東水産切揚船平戸丸に積載し居る漁獲物の処分を加賀商店に転売の約束をなした処から、小熊商店にては前約束を楯に平戸丸の入港と同時に積載漁獲物を差押さへし処、加賀商店ではツエントロソユーズに対する貸金廿五万円の抵当として二重差し押へをなし紛議を惹起するに至つたが、加賀商店の手にて平戸丸積込のまゝ漁獲物全部は上海に直輸出さるゝことゝなり同船は塩鱒百十二万五千尾を積載し上海に向五日当港出帆直航した
                                                 (大正14年9月8日付「函毎」)

 また、次のようなロシア人漁業家と海産商山那虎吉の例がある。

浦塩露国漁業家スイチキンは大正十二年市内谷内頭町梶川三吉に万事を委任し西濱町山那虎吉より金七千百五十円の漁業資金を借り受けた、併し当年は不漁のため返済できず山那は魚を差し押さえ梶川が仲に入ってその魚を処分したがスイチキンは金を借りる事は委任したけれども魚の処分迄は頼まぬ、委任状面にはすべてを頼む如く記載してあるがそれは露国の慣例で事実は話し合いにあると駄々をこねたので山那は谷川朝山両弁護士を代理とし地裁に現状恢復の申し立てをなした、被告側では、松田弁護士を代理として係争、十一日午前委任状鑑定人として露領事館員を喚問する処あったが同人はすべて委任状通りにすることに間違いないと陳述し事件は原告側へ頗る有利に展開された
                                                 (大正15年3月12日付「函毎」)

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