通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
1 発展する函館商業
1 水産物流通構造の変化と商業の展開

日露戦争前後の函館の経済

内外貿易の推移

管外移出の動向

移出水産物とその取引

卸売市場の整備と函館海産商同業組合の設立

管外移入品の推移

内外賢易の推移   P48−P53

 表1−13は、北海道の内国貿易、外国貿易、漁業貿易の推移を主要港湾別にみたものである。日露戦争期の明治38年の移輸出入、漁業貿易の総額は9094万円余であったが、大正10年には5億1924万円余を数え、この16年間に5.7倍の増加をみた。この間に、函館6.9倍、小樽4.0倍、室蘭25.1倍、釧路14.1倍、根室1.6倍に増加した。北海道の物資の呑吐港、中継商業都市として勢力を二分していた函館と小樽を比較すると、函館が全道平均の増加率を上回ったのに対し、小樽は大きく下回った。
 明治38年の全道移輸出入、漁業貿易の総額に占める港湾別の割合は、函館が33.2%、小樽が44.6%で、10%以上の差があった。ところが大正10年のそれは、函館が40.2%、小樽が31.1%と逆転し、明治38年に、わずか4.3%にすぎなかった室蘭が、大正10年には、19.1%を占めるに至っている。
表1−13 北海道移輸出入物品価額港湾別
年次
区分
全道
函館
小樽
室蘭
釧路
根室
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
明治38

移出
移入

普通輸出
普通輸入

総計
千円
40,131
44,427
84,558
5,256
1,126
6,382
90,940

100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
千円
12,563
14,400
26,963
2,317
911
3,228
30,191

31.3
32.4
31.9
44.1
80.9
50.6
33.2
千円
16,673
21,751
38,424
1,723
41
1,764
40,588

41.5
49.0
45.4
32.8
3.6
27.6
44.6
千円
1,837
764
2,601
1,166
174
1,340
3,941

4.6
1.7
3.1
22.2
15.5
21.0
4.3
千円
621
563
1,184
50
0
50
1,234

1.5
1.3
1.4
0.9
0.0
0.8
1.4
千円
1,644
1,158
2,802
-
-
-
3,986

4.1
2.6
3.3
-
-
-
4.4
明治42
移出
移入

普通輸出
普通輸入

漁業輸出
漁業輸入

総計
58,567
72,546
131,113
5,928
4,938
10,866
1,427
3,491
4,918
146,897
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
21,256
26,054
47,310
2,000
508
2,508
1,330
3,117
4,447
54,265
36.3
35.9
36.1
33.7
10.3
23.1
93.2
89.3
90.4
36.9
21,717
33,802
55,519
2,294
307
2,601
97
357
454
58,457
37.1
46.6
42.3
38.7
6.2
23.9
6.8
10.2
9.2
39.8
3,674
3,860
7,534
1,150
4,122
5,272
0
17
17
12,823
6.3
5.3
5.7
19.4
83.5
48.5
0.0
0.5
0.4
8.7
2,573
1,725
4,298
484
1
485
0
0
0
4,783
4.4
2.4
3.3
8.2
0.0
4.5
0.0
0.0
0.0
3.3
1,995
1,586
3,581
-
-
-
-
-
-
3,581
3.4
2.2
2.7
-
-
-
-
-
-
2.4
大正2
移出
移入

普通輸出
普通輸入

漁業輸出
漁業輸入

総計
83,414
94,173
177,587
11,227
1,817
13,044
2,179
5,219
7,398
198,566
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
27,148
32,216
59,364
3,489
671
4,160
2,082
4,990
7,072
70,617
32.5
34.2
33.4
33.1
36.9
31.9
95.5
95.6
95.6
35.6
32,630
44,969
77,599
4,770
361
5,131
91
220
311
83,346
39.1
47.8
43.7
42.5
19.9
39.3
4.2
4.2
4.2
42.0
9,124
4,672
13,796
1,122
784
1,906
6
9
15
15,771
10.9
5.0
7.8
10.0
43.1
14.6
0.3
0.2
0.2
7.9
3,607
4,756
8,363
1,537
1
1,538
0
0
0
10,024
4.3
5.1
4.7
13.7
0.1
11.8
0.0
0.0
0.0
5.0
819
949
1,768
309
0
309
0
0
0
2,111
1.0
1.0
1.0
2.7
0.0
2.4
0.0
0.0
0.0
1.1
大正6
移出
移入

普通輸出
普通輸入

漁業輸出
漁業輸入

総計
213,373
136,982
350,355
21,730
2,838
24,568
5,391
5,382
10,773
385,696
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
49,482
55,807
105,289
6,398
915
7,313
5,236
5,036
10,272
122,874
23.2
40.7
30.1
29.4
32.2
29.8
97.1
93.6
95.3
31.9
64,475
57,523
121,998
11,237
340
11,577
155
346
501
134,076
30.2
42.0
34.8
51.7
12.0
47.1
2.9
6.4
4.7
34.8
69,171
13,050
82,221
2,343
1,583
3,926
0
0
0
86,147
32.4
9.5
23.5
10.7
55.8
16.0
0.0
0.0
0.0
22.3
6,778
5,528
12,306
1,105
0
1,105
0
0
0
13,411
3.2
4.0
3.5
5.1
0.0
4.5
0.0
0.0
0.0
3.5
1,861
876
2,737
647
0
647
0
0
0
3,384
0.9
0.6
0.8
3.1
0.0
2.6
0.0
0.0
0.0
0.9
大正10
移出
移入

普通輸出
普通輸入

漁業輸出
漁業輸入

総計
247,302
229,010
476,312
17,588
3,614
21,202
6,219
15,516
21,735
519,249
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
90,908
92,103
183,011
4,340
1,104
5,444
5,887
14,387
20,274
208,729
36.8
40.2
38.4
24.7
30.6
25.7
94.7
92.7
93.3
40.2
73,291
76,657
149,948
7,688
2,288
9,976
332
1,129
1,461
161,385
29.6
33.5
31.5
43.7
63.3
47.1
5.3
7.3
6.7
31.1
54,625
43,311
97,936
953
222
1,175
0
0
0
99,111
22.1
18.9
20.6
5.4
6.1
5.5
0.0
0.0
0.0
19.1
7,726
6,248
13,974
3,432
0
3,432
0
0
0
17,406
3.1
2.7
2.9
19.5
0.0
16.2
0.0
0.0
0.0
3.4
2,707
2,362
5,069
1,175
0
1,175
0
0
0
6,244
1.1
1.0
1.1
6.7
0.0
5.5
0.0
0.0
0.0
1.2
『北海道庁統計書』より作成
 北海道の移住者数をみると、日露戦争期から明治41年にかけて大きなピークをなし、以後、減少・停滞する。この時期になると、条件の良い原野への入植はほとんど終わり、早期に入植したところでは開拓の過程を終えようとしており、農業殖民地としての外延的拡大は頭打ちになっていた。第1次世界大戦がはじまると、移住者は再び急増し、最後のピークをなすが、大正9年以降、急減してしまう。この大戦期の移住者の激増は、鉱工業の発達や豆成金、澱粉成金、船成金を生み出した北海道の未曽有の好景気に支えられたものであった。農業開拓の進展にともなって農産物の集散、中継市場として発展してきた小樽にとって、内陸部の外延的拡大の頭打ちにより、急激な伸長は望めなくなっていたのである。小樽は鉄道網の発達により伸長してきたのであるが、鉄道の更なる発達、港湾の整備、汽船海運業の発達により、最寄りの中小港湾からの船積みも増加しつつあった。室蘭の急成長もこれと無関係ではないし、釧路港も道東の農林産物の積出港となっていた。
 次に、小樽と函館の管外移出入、普通貿易、漁業貿易のそれぞれについて、全道に占める比率の推移をみてみよう。
 明治38年の管外移出入の全道に占める比率は、函館が31.9%、小樽が45.4%、明治42年函館が36.1%、小樽が42.3%、大正2年函館が33.4%、小樽が43.7%、大正6年函館が30.1%、小樽が34.8%、大正10年函館が38.4%、小樽31.5%である。大戦期に入り小樽の管外移出入に占める比率が激減し、函館と逆転している。おそらくは、室蘭が急激に伸長したことによるらしい。管外移出入に占める室蘭の比率は、大正2年7.8%であったが、大正6年には23.5%をかぞえ、大正10年にも20.6%を維持しているからである。
 普通貿易の全道に占める比率をみると、明治38年函館が50.6%、小樽が27.6%、明治42年函館が23.1%、小樽が23.9%、大正2年函館31.9%、小樽が39.3%、大正6年函館が29.8%、小樽が47.1%、大正10年函館が25.7%、小樽が47.1%である。明治42年室蘭の比率が48.5%を占めたのは、日本製鋼所の設立や王子製紙苫小牧工場の建設にともなう諸機械類の輸入にともなうものである。第1次大戦期には、小樽から豆類、澱粉などが、室蘭からは兵器類が大量に輸出された。函館は、前代と同様に清国向け海産物が中心であったが、釧路や根室からの直輸出もはじまり、かげりがみえはじめた。
 漁業貿易に占める函館の比率は、明治42年が444万7000円余、90.4%で、その後も常に90%台を維持し、大正10年には2027万4000円余、93.3%を占め、ほぼ独占的な地位にあった。露領漁業の策源地といわれる所以である。明治42年から大正10年までの12年間に、4.6倍の増加をみたことになる。
 大正10年の函館の移輸出入、漁業貿易の総額2億872万9000円の構成は、管外移出入87.6%、普通貿易2.6%、漁業貿易9.7%である。約1割を占める漁業貿易の経済波及効果は、計り知れない程大きく、函館経済の根幹をなした。漁業貿易で輸入される鮭鱒・鰊・缶詰などは、函館を経由して国内外に積み出され、露領漁場に必要な米、漁業用具が移入された。また、造船、製網、製缶など露領漁業にかかわる工業が発達し、漁期になると多数の露領出稼者が出入りしたのである。
 日露戦争以前の露領漁業は、買魚時代、密漁時代とも呼ばれ、法的根拠の乏しいものであった。日露戦争の結果、ポーツマス条約によって日本人もロシア人と同様に、露領沿岸で漁業に従事する権利を得、この条約にもとづき明治40年に日露漁業協約が調印された。ここに露領漁業が法的に確立し、函館がその策源地として発展する基礎が築かれた。
 日露戦争後の経済界の発展により、明治39年、40年とも函館の商況は良好に推移したが、40年8月25日東川町から出火した大火災により、函館区の枢要部分が焼失し、銀行、会社、大商店のほとんどが灰燼に帰した。函館の再起を危ぶむ声さえ出、物資の不足から著しい価格騰貴がみられた。しかし、銀行預金の取付も少なく、金融は比較的円滑に推移した。商店は仮小屋で営業活動をただちに再開し、倉庫群が焼失してしまったため、函館に回漕される商荷物は、そのまま、あるいは積換して敏速に仕向地に積み出してしのいだという。明治41年には、市街のいたるところで家屋の建築が盛んに行われ、多数の諸工が入り込み、各商店は復興景気で潤った。函館のこのような再建は、世間一般からは意外の目でみられたが、函館商人の古来から蓄積してきた実力、資力の豊かさを物語ることに他ならなかった。
 『戦後二於ケル函館区商工業ノ現況』(北海道大学附属図書館蔵)は、日露戦争後から第1次世界大戦期にかけての函館経済の発展を、次のように総括している。

 函館港ハ本州ト北海道間ニ於ケル物資ノ集散地及中継地ニシテ、当地ノ経済関係ハ極メテ広ク、即チ内ハ内地諸府県、本道各地、樺太、及ビ外ハ支那、露領沿海州、北米合衆国、印度、濠州、欧羅巴等ニ及ビ、殊ニ漁業ニ於テハ樺太、堪察加、露領沿海州トハ最モ密接ナル関係ヲ有シ、漁業資金ノ融通、並物品ノ仕込ハ殆ンド当港ニ於テ之ヲ為シ、其漁獲物ハ一旦当港二集リ、而シテ各需要地へ分布セラレツゝアルノ状態ニシテ、我函館ハ内外貿易上ニ於ケル要港ナルト共ニ、所謂露領漁業ノ策源トシテ最モ重要ナル使命ヲ有スルナリ。然ルニ本道拓殖ノ開発ニ伴ヒ漸次各地トノ交通機関発達セル為メ当港ヲ経由セザルモノ漸ク多キヲ加ヘ、当港ノ商勢ニ多少ノ影響ヲ与フルニ至レリト雖モ、当港ハ前陳ノ如ク物資ノ呑吐港トシテ、商業的設備ニ於テ、或ハ販路関係ニ於テ確実ナル基礎ヲ有スルガ故ニ、当港以外ノ各地ノ発展ノ如何ニヨリ直ニ当港ノ南勢ニ著シキ打撃ヲ蒙ムベシトハ信ゼザルノミナラズ、事業計画卜金融機関トノ関係ハ愈々密接鞏固ノ度ヲ加ヘツゝアルヲ以テ、容易ニ他ノ追従ヲ許サザルモノアリ。之ニ反シ工業ニアリテハ原料ノ需給関係上、若クハ動力供給等ノ点ヨリシテ、萎靡トシテ振ハザルノ状況ニシテ、大規模ノ経営ニ係ルモノ僅々数個ノ工場ヲ有スルニ過ギザルノ状態ナリ。
斯ノ如キ状勢ニ立脚セル函館ハ港湾利用ノ点ニ於テ商業ノ発展顕著ナリシハ自然ノ結果トスル所ニシテ、工業ノ不振ハ亦地勢上拠ツテ来ル所少カラザルモ、尚之ニ関シテハ一層ノ努力ヲ要スルモノアルベシ。
而シテ大戦中ハ我ガ国一般未曽有ノ好影響ヲ受ケテ、我函館モ商業ノ発展ハ勿論、工業界モ長足ノ進歩ヲ遂ゲ、空前ノ好況ヲ呈シ、大戦後ノ大正八年ノ如キハ真ニ黄金時代ヲ現出シタルノ観アリキ。

 第1次大戦期の日本経済の好況は、外国貿易の拡大に支えられたものであり、函館も例外ではなかった。大戦前の日本の経済界は入超があいつぎ、商況は停滞していたが、函館の内外貿易は比較的順調に推移していた。大正3年に大戦が勃発し、大正4年になるとヨーロッパ交戦国からの輸入が途絶したことにより国内産業が勃興し、また、世界各市場においてヨーロッパの生産品の欠乏が、日本製品の需要を喚起し、未曽有の活況を呈した。函館においても漁業貿易の拡大と外国輸出の増大に先導され、黄金時代を現出したのである。この間、露領における鮭鱒缶詰業が著しく発達し、露領から直接にヨーロッパなどに輸出された。
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